伊豆(下田・唐人お吉編) その2 | ||
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現在も残る安直楼。 お吉が手放した数年後に現在の持ち主の先祖が購入し、寿司屋を開いた。 現在は店をたたんでいるようであるが、史跡として見学できるようになっている。営業していた時の看板が残っており、そちらに「見学のみもできます」と記述してある。 入るとおじいさんとおばあさんがいて、ざっと説明してくれる。 |
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ヤマセミさんのHP、「ヤマセミの家庭菜園日誌」からお借りした戦前の安直楼の写真(絵葉書)。 海鼠壁が後からつけられたものだというのが分かる。また寿司屋であったときの看板が見られる。 ヤマセミさんのHPにはこの他、下田の古写真が多く掲載されているので、興味のある方はどうぞ訪れてみてください。 |
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2階の見学の前に、持ち物は置いていってくれと言われたために撮影できなかった。撮影禁止だったのか、遺品の万引防止なのか分からないが、カメラだけ首にかけていけばよかったと後悔している。 お吉の遺品は帯や櫛などでそれほど品数が多いわけではない。 |
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建造物としては非常に興味深く見ることができた。狭い階段、段差の多い廊下、通りを見下ろす窓…。幕末、建物内の相手を襲撃する際、太刀より脇差の方が都合がいいというのがよく分かった。 訪問者ノートを見てみると、ものすごく丁寧に説明してくれるようだが、自分はざっとの説明だった。帰り際に2,3質問すると非常に丁寧に詳しく説明してくれた。色々質問すれば面白い話も聞けるのではないだろうか。自分も珍しくノートに記帳、「はっとし_ぜろ」。 |
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お吉が身を投げた「お吉ケ淵」を臨む。 新渡辺博士が建立したお吉地蔵尊と祠が左岸にあったのだが、車が停められずに撮影できなかった。 毎年3月27日(実際の死亡は3月25日)にはお吉まつりという供養祭が行われる。 |
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道の駅ベイ・ステージに展示されていた昭和40年代のお吉ケ淵。 河岸工事により、現在と雰囲気がかなり異なる。 |
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上記ヤマセミさんのHPからお借りした戦前のお吉ケ淵。祠が左端に見える。 | ||
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「お吉」といえば「ハリス」、ということでハリス記念館のある玉泉寺へ。 初代アメリカ領事館にもなっていた寺であるが、下田市街から少し距離があるため、宝福寺と比較すると観光客の数は少なめ。 宝福寺と比較してお吉に対する記述が非常に冷めたものとなっている。意見としては自分も近いものを感じるが、どうもやっかみとも思えてしまう、ひねくれ33歳。 |
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境内に残る「日本最初の屠殺場跡」。 現在は枯死して残っていないが、この場所に植えられていた仏手柑樹という木に牛を繋いで屠殺したらしい。もちろん米人の食料の為。 |
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昭和6年、東京の牛肉商により建立された牛王如来。牛王というイメージはなかった。 | ||
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牛肉商による建立ということが分かる刻字。 | ||
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本堂に残るストーブの煙突を出した穴跡。 説明板には「石」とあるが…? |
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説明板の下に展示されていたハリスの日記。若干ストーブの事について記載されてあるが、わざわざここで展示するほどのものかとも思う。 | ||
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昭和54年、当時のアメリカ大統領カーターが下田に訪れた際にはこの寺へもやってきている。その時使用された歓迎アーチ。 | ||
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本堂前の「牛乳の碑」。 疲労と持病で倒れたハリスに対し、お吉が禁を犯して牛乳を集めて飲ませたという。 その後、ハリスからの依頼もあり、正式に牛乳の売買が始められた。 碑の建立者は伊豆を本社とする森永。 |
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ペリー艦隊5名の墓。この寺の墓地の中でも見晴らしの良い一等地に建てられている。パッと見、普通の日本人の墓のようにも見えるが… | ||
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やはりアメリカンな記述。 | ||
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アメリカ海軍から贈呈された錨。 | ||
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