伊豆(下田・唐人お吉編) その1
(静岡県 2005/1)

下田の観光地でその名をよく目にした「唐人お吉」、下田での知名度はある意味、歴史の教科書にも名を馳せるあのペリーと同等ともいえる。
正直下田に入るまではあまり予備知識もなく、せいぜい「幕末、アメリカ総領事ハリスの妾となったが、異人に体を売ったということで世の罵倒を受けた。」ということぐらいであった。どういう経緯でとか、その後どうなった、とかまでは全然知らなかったのだが、下田に入るとあちこちでその名を見かける。せっかくだからということで見られる範囲で色々見てまわったのでそのレポート。


お吉は現在の愛知県知多郡生まれ。その後下田に移り14歳で芸妓となった。その美貌は下田でも「新内明烏のお吉」と呼ばれ有名であったという。17歳の時、奉行所からの依頼と多額の支度金によりアメリカ総領事ハリスの侍妾となるが短期間(3回とも言われる)で解雇された。その後は幼馴染と家庭を持ち、髪結業を始めるが不和で別離、髪結業もやめてしまう。42歳の時に亀吉という船頭の援助で下田に安直楼という料亭を持つに至るも、深酒で身を持ち崩しわずか2年で廃業。その後更に貧窮し51歳で入水した。


あちこちで見る説明板やパンフレットには「幼馴染との不和の原因となった深酒」、「安直楼の廃業」は世間からの「差別の目」が原因であったとされている。更に説明板では奉行所からの「日本を助けると思って行ってくれ」という再三にわたる説得や、船大工であった幼馴染の侍への出世の為に仕方なく妾となった部分はクローズアップされているが、多額の契約金や給金、退職金の使い道についてはあまり大きくうたわれていない。
。お吉没後、その人生は十一谷義三郎によって小説化され、広く世に知られる事となった。世間からの冷たい目や差別から破滅したお吉は日本人好みの悲劇の主人公となる


詳しく調べた訳ではないのだが、差別があったということは事実であったにしろ、紹介される内容は多分にフィクションを含んでいると思えてならない。
お吉のほかにも妾として入った女性はハリスが去ったあと、結婚して特に波風のない人生を送っているようであるし、お吉の安直楼も亀吉という船主のバックアップが入っている。決め付けては何なのだが、最終的にはお吉の人生における不器用さがその悲劇をもたらしたのではないだろうかと考えるのが、一番しっくりくるのである。


お吉の生涯については、その墓がある宝福寺に詳しく掲載されている。
お吉年譜

お吉の墓がある宝福寺。「唐人お吉記念館」も併設されており、観光客も多い。
遺品も多く、その生涯を知るにはうってつけではあるのだが、話がかなり美化(悲劇化)されている部分が多く感じられた。


まぁお吉で参拝客を集める以上仕方がないことではあるが。

本堂。右側に「異人宿舎跡」の碑、左側に「幕末下田奉行所跡」の碑が見られる。

開国直前、下田奉行所として使用されていた他、勝海舟が山内容堂に坂本龍馬の脱藩の罪の許しを請うたとか、江川太郎左衛門が農兵調練を行ったなど、幕末好き垂涎の寺。


ただ公式HPの「永禄2年(1559)11月、信長の圧迫をのがれ、本願寺第11代顕如並に法孫釈了善、真言を改め開基。」については?。当時信長は本願寺への圧迫は行っておらず、尾張をやっと治めた時期。桶狭間の戦いすらまだ終えてない時期。


 宝福寺由緒

お吉の墓。
水谷八重子らの寄付により、現在の立派な墓が建造される。
寺の左手に墓がたくさんあるので、お吉の墓もその中にあるだろうと探していたが見つからず。結局、お吉記念館に入らないと見られないようになっていた。










水谷らが寄付する前の墓は非常に小さなもので、脇に建てられていたが、この時は気付かずに撮影できなかった。もったいない。


 お吉の墓について説明板

テープで一つ一つの展示物についての説明が行われる。説明も丁寧で非常に分かりやすい。
観光客は多いが、おじさんやおばさんが多い。

お吉を模した人形。髪の毛は京都の芸者の髪の毛、着物も同じく芸者のもの、長襦袢についてはお吉が実際に使用していたものと、リアリズムに満ちている。手前の籠もお吉が実際に使用していたものらしい。


とりあえず夜は近づきたくない。

展示されていた19歳当時のお吉写真。
本当に本人の写真かどうかは不明であるが、19歳というとハリスとは既に縁が切れていた時期である。


当時の女性の写真を見ると、「むむう」と思えてしまう人が多い中で、お吉はきりっとした二重で確かになかなかの美人。

お吉が生前友人に譲り渡した雛人形。晩年の貧困を考えると生活の糧として譲ったものだろう。
どのようにこの雛人形を手に入れたのかは分からないが、惜別の念を持って苦し紛れに譲ったのか、何も考えずに譲ったのか、妙にそれが気になった。

お吉が使用した「胴ぬき」と言われる下着。こちらも友人に譲り渡したもの。


狩野派の屏風や井伊直弼の孫から出品された本も同時に展示されている。

入水し、引き取り手がないまま放置されてお吉の遺体をひきとってこの寺に埋葬した竹岡大乗師の写真と像。
竹岡大乗師はこの後、お吉の遺体を引き取ったということで世間から冷たく見られ、横浜に行ったと記載されていたが、正直どういう経緯で行ったのかが知りたい。

お吉の使用した櫛や簪(かんざし)。主に安直楼時代のもの。
友人からの出品ということなので、これも生活の為の譲り渡しだろうか。

お吉の実在を証明する過去帳。左ページ右端の貞歓がお吉。下の方に「キチ」とある。

お吉の生涯を紹介したパネル。
おじさん、おばさんには喜ばれるかもしれないが、天邪鬼の自分はこういうものを見ると冷める。

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