旧東海道 熱田編 その3

源頼朝生誕地(誓願寺):
愛知は戦国の三英傑を輩出した地として有名だが、実は鎌倉幕府初代将軍、源頼朝の生誕地でもある。国道19号線に面した誓願寺がその地。源頼朝の母は熱田大宮司の藤原季範の娘だったので、この地で頼朝を出産した。寺は非常に小さく、説明板や石碑も見落としがちなので、地元でも知らない人が多いようだ。ちなみに異母弟義経は熱田神宮で元服したと伝説があり、父義朝も知多の野間で殺されている。結構愛知つながりが深い親子なのである。
誓願寺。寺門の横に簡単な説明板と石碑が建つ。
1529年藤原季範の別邸跡に建てられた寺院。江戸時代は同じく源氏を名乗る徳川家の庇護を受けたため、門には徳川家の葵の紋が飾られている。


 説明板

境内。最初入った時は一瞬個人宅かと思ってあせった。寺だと分かって妙なプレッシャーあり、あせりはとれない。

頼朝生誕地の碑。
写真を撮りながらあせる。

頼朝産湯の井戸。
写真を撮りながら更にあせる。

源氏の白旗をかたどったモニュメント。
あせりは限界、早々に退散。

伝馬町界隈:
熱田神宮の南側、現在の国道一号線の裏に旧東海道が通っていた。あちこちに旧東海道だったという看板も見当たるが、知らずに歩けばただの裏道状態。国道一号沿いに専門学校が建っているので、昼は学生の姿が目立つ。
 


車止めや電柱にかかる看板に旧東海道であった名残を留める。

専門学校の裏手に残る「裁断橋址」。当時この辺りを流れていた精進川に架かっていた橋。小田原攻めに出征し、病死した息子の菩提を弔う為に、その母親が架けかえた橋。三十三回忌に再度架けなおしを志すが、果たせず亡くなってしまう。その遺志は養子へと受け継がれ、1622年橋の架けなおしは成った。とてもアンニュイな気持ちになる橋でもある。


 説明板
 説明板

「日本女性三大名文」の一つに数えられる名文が刻まれた擬宝珠は博物館に移されてしまっており、現在は複製と橋の一部が残っているのみ。

当時ここを流れていた精進川近くに老婆が住んでいて、溺死した人の衣服や持ち物を剥いでいた。ある日幸順という修行僧の溺死体から衣服を剥いだところ高熱を出し、老婆は狂死してしまった。その後川べりに魂がさまようので、土地の人達が罪障消滅の為に三途の川脱衣婆の姿を安置して姥堂とした。
1926年精進川は埋め立てられたが姥堂はそのまま残され、土地の人から「おんばこさん」と呼ばれていたが、戦争時に焼失してしまった。
現在精進川の姿は全く見られないが、縮小して復元された裁断橋の姿は見ることができる。写真は新姥堂、二階にその脱衣婆の像が安置されている。

旧東海道。一方通行の狭い道で、天下の往来というイメージは残っていない。

徳川家康が織田家の人質時代に幽閉されていた跡地の説明板。
当時加藤家は東(本家)・西(分家)に分かれており、家康をあずかったのは東家とされている。当時、加藤図書助家の屋敷は羽城と呼ばれ、川・掘・海に囲まれていたため、幽閉するに至ってこの上ない環境でもあった。
後に東西加藤家は福島正則と熱田の支配権を巡って争い、勢力を弱めたが、1603年家康は順盛の曾孫順正に140石ほどの知行を与えている。これは家康の人質時代、あまり無下に扱っていなかったためであるといわれている。

現在も子孫の方が住まれてるようだ。どうでもいいがかなりの豪邸で羨ましい。

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