旧東海道 熱田編 その1

戦後の復旧で「白い街」となってしまった名古屋。しかし市内を歩けば、まだまだ古き時代の名残をあちこちに留めている。ということで、今回は主に名古屋市南部、旧東海道沿いのメジャー/マイナー観光スポットの紹介。


七里の渡し:
現在JR東海道線や国道1号線は名古屋から大阪方面に向かう際、当然ながら陸路をとっている。しかし江戸時代の江戸から京へ向かう旧東海道は、この熱田から三重県桑名市までは海路をとっていた。現在名古屋市熱田区に残るこの七里の渡し跡は、当時の舟付場であった。ただ、桑名までは海路長く、悪天候時や舟に弱い人等は海路の短い佐屋街道(姫街道)を使っていたようだ。
現在は埋め立てがすすみ、海路の船着場であったということは想像しにくい。

昔は熱田区に通学・通勤で通っていたのだが、この七里の渡しをゆっくり見たことはなかった。これは、集合場所に一番近い人が遅刻する心理と同じ。




堀川に突き出た形で復元されている七里の渡し跡。イベント用のすこぶるマイナーチックな観光船の船着場でもある。写真は渡し跡から南方面を向いて撮影。マンション等が立ち並び、普通の川にしか見えない。ちなみにこの堀川も名古屋城築城の際に作られた、物資の運搬用の人工河川。




当時の七里の渡し(満潮時)コース。地形は現在のもので、その航路のほとんどが埋め立てられてしまっている。航路はおよそ4時間くらいとされる。(風媒社 熱田歴史散歩より)

突端の先端部分で南方面を向いて撮影。昔は水が汚れていてかなり臭かったらしいが、この日は何やら怪しげな女性が多く徘徊しており、香水臭かった。

説明板の絵。古い日本画の弱点である奥行きの無さを露呈しており、左上の船は大挙襲来したデスラー艦隊にしか見えない。

熱田湊常夜灯。1625年尾張家家老で犬山城主であった成瀬正房が父の遺命によって建立した。1791年には焼失したが、同年成瀬正典によって再築された。その後荒廃していたが昭和30年に復元された。

常夜灯(手前)と鐘楼(奥)。この辺りは怪しげな女性達が徘徊していたので、あまり写真の撮影ができなかった。

現在は宮の渡し公園として整備されている。公園と言っても、道路と川に挟まれた細長い敷地で、近所の人達の散歩コースとなっている。あと強いて言うなら、怪しげな女性達の徘徊コースでもある。

名古屋市南部に大きな被害をもたらした昭和34年9月の伊勢湾台風。その当時の最高水位。右側のポール上端部、赤いマークがそれで、2m50cmとある。馬場も沈む水位。
ちなみに伊勢湾台風は、阪神大震災までは戦後、最大の被害をもたらした天災だった。

自然石を用いたオブジェ。

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