大樹寺その2

三代将軍家光が建立した鐘楼。
初代の鐘はヒビがはいってしまったため、現在は二代目で九代将軍家重が改鋳したもの。初代は宝物館にて展示されている。

本堂。
幕末の1855年大火により焼失。その後財政難により2〜3割スケールダウンして再建されている。

軒瓦にズラリと並んだ葵の紋。

境内西側にある松平八代の墓所。

こちらも灯篭や瓦に葵の紋がズラリ。

墓所の説明板。
家康が初代親氏から八代広忠(家康の父)までの墓を再建したもの。
当の家康の墓も昭和44年、広忠の横に建てられた。

手前の家康から順に古くなっていく墓。

立派な家康の墓。
昭和44年建立ということでやはり石が新しい。

左が家康の父広忠、右が祖父清康。
共に若くして家臣に討たれるという悲運の持ち主。

清康は若いながらもこの地方の実力者として版図を広げつつあったが、守山城で家臣に討たれた。10歳で跡を継いだ広忠は清康横死に伴う混乱の中、長男竹千代(後の家康)を人質に出すなどして今川氏の庇護を受け、家名を存続させたが、やはり家臣に斬られて(諸説あり)死亡、領国三河の支配は事実上今川家によって行われ、困窮を極めた。

初代親氏の墓。
記録が残っておらず、実在の人物かは不明。
豊田市の松平郷には親氏の像が建てられている。後に領する岩津を指しているとかいないとか。

松平家の墓の南側は墓地となっている。
写真中央奥に見えるのが清康によって建造された多宝塔。


唯一の重文指定建造物で、この寺最古の建造物である多宝塔。
現在は柵があって近寄れないが、宝物館に掲載してあった古写真を見ると、昔は近くまで行けたらしい。

多宝塔の説明板。

多宝塔。
古写真を見ると明治期にはかなり痛んでいたが、現在では修復され、美しい姿を見せている。

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