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南吉生家付近 その1 |
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幼い南吉が草つきをして遊んだ常夜灯、日常寝起きしていた離れ、当時の街道を示す道標、死期迫る中で作品を書いていた継母が営む下駄屋。南吉がその短い生涯の半分以上を過ごした場所。
家族の中で一人、養子先の姓「新美」のまま過ごした南吉であったが、やはり狭いながらも家族と暮らす家にやすらぎを感じていたのだろうか。 |
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平成22年、徒歩1分のところに駐車場が造られたので格段に訪れやすくなった。
乗客全部が降りてきたらえらいことになりそうだが、なんと観光バス駐車にも対応している。 |
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南吉生家。旧街道側から見ると普通の平屋建であるが、実際は地形の関係で二階建となっている。見えている部分が二階にあたり、入って階段を降りると一階となっている。戦後人手に渡っていたが、半田市が購入、復元を行って現在の公開に至っている。 |
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生家横に建てられている「新美南吉生い立ちの地」碑。昭和41年に建てられた。 |
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生家の前にある常夜灯。「花を埋める」等の作品にも出てくる。結構狭い路地な上、道が入り組んでいるので車で近くまで来るには注意が必要。 |
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よく見ると子供らが草つきをして遊んだ跡が残っている(写真右の凹み)。 |
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こちらも生家のすぐ近くにある道標。往時は生家前は街道であったためこのような道標が建てられていた。 「右 半田 もろさき 左 かめさき 三州」 と書かれてある。 |
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生家前の説明板。 |
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説明版にある生家見取図。図の二階下部分が上の写真を撮った側、つまり街道側となっている。
養家に比較すべくもないほど狭い家であり、継母との関係も決し良好とは言えない状態ではあったが、家族で暮らせるこの家の方が南吉には居心地の良いものであっただろう。 |
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南吉の「冬ばれや大丸煎餅屋根に干す」が刻まれた石碑。便所の横にある。 |
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便所。母屋のすぐ脇にある。現在はもちろん使用できない。 |
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街道から見た生家入口。
左が継母が営んでいた下駄屋、右が父親の畳屋。 |
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継母が営んでいた下駄屋。 最晩年「小さい太郎の悲しみ」、「狐」はこの店の火鉢の脇で喉の痛みに耐えながら書かれた。 |
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下駄屋入口付近には南吉の写真と簡単なパネルが展示がされている。
養家と同様、柱のボタンを押すと説明テープが流れる。
テープじゃなくてCDかもしれないけど「説明CD」じゃイメージしにくいし。 |
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左から二番目の写真は半田二小代用教員時代、最初の恋人(木本咸子)に送った写真。左下に「新美正八」のサインが見える。 |
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下駄屋の土間から街道方面に向かって撮影。
養家に比べて狭くて手狭だが、養家で感じる妙な余白感はない。あの感じは初老の今なら落ち着きがあって良いのだが、子供には心細さを感じさせるだろう。 |
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