港に開かれた空港 〜名古屋国際仮飛行場・名古屋飛行場〜 その1

2005年の中部国際空港開港まで東海地方の代表的な空港は名古屋市北部(豊山町、小牧市)にあった名古屋空港であった。三大都市の空港としては少々貧弱であったものの、愛知をはじめとする東海地方の人々にとっては馴染みの深い空港である。

この名古屋空港は戦時中に陸軍小牧飛行場として建設された。戦後の米軍接収を経て民間空港(自衛隊も共同使用していたが)として再スタートを切ったこの空港の歴史はゆうに半世紀を超える。しかし小牧空港が民間空港として使用される20年ほど前、名古屋を一流都市にしようと考えた人々の熱意によって現在の名古屋港に民間空港が建設され、同時に東京と大阪を結ぶ定期路線も就航していたのである。
現在スーパー中枢港として発展した名古屋港にできた空港、その歴史は短く、痕跡も皆無に近い。今回はその港に開かれた空港、「名古屋国際仮飛行場」と「名古屋飛行場」の紹介をしたい。

※ (民間の定期航路自体は大正末期、新舞子(知多市)の安藤飛行機研究所によって運行されていたが、これは水上機によるもので、空港を必要としなかった。)



−熱望された飛行場−
第一次世界大戦によって航空機は飛躍的な発展を遂げた。陸運・海運を大きく凌駕するその高速性は旅客、軽量運輸の手段として次第に認められていった。元号が昭和に変わると東京・大阪・福岡・漢城・平壌などに国際飛行場が建設され、民間の定期便運行もはじまった。
市政40年を経て人口も100万人目前にまで発展した名古屋も近代的な都市の整備、国防という面から飛行場建設が熱望され、昭和7年、愛知県・名古屋市・名古屋商工会議所は飛行場建設に向けて協議を開始した。


−候補地決定−
飛行場建設には当然ながら広大な土地が必要である。
後に建造された多くの軍用飛行場(小牧、安城、岡崎、河和、甚目寺など)が軍による半強制的な徴用によって土地を手にいれることができたのに対し、当時は共用の飛行場を造るために無理な土地の徴用を行うことができなかった。市街地に近い広大な土地を求めて関係者の目は埋め立てが進む名古屋港に向けられた。
そして昭和7年7月、飛行場建設の候補地として名古屋港第8,9号地連絡埋立地南方が内々で選定され、内務大臣に対して公有水面埋立免許の申請が行われた。

政府も国防の観点から名古屋近郊の飛行場建設が不可欠と考え、飛行場建設地選定のために逓信省(航空事業所管)の航空官を派遣した。来名した航空官は建設候補地として名古屋港が内々で選定されていることを知らされたが、埋め立てすら完了していない飛行場の建設には造成や施設建造で最低5年は必要であると判断した。飛行場の早期実現を目指す政府は完成までの期間を補う仮飛行場の建造を希望し、本飛行場とは別に土地選定が指示された。


−名古屋国際仮飛行場−
航仮飛行場の条件は、「水陸両用」、「名古屋近郊」、「周囲に障害になる建造物が無い」というものであった。候補として西加茂郡伊保原(後に軍の飛行場が建造される)、名古屋市西部の土古新田、名古屋港第7号埋立地などが挙がったが、どの地も条件を満たすことができなかった。選定作業はおよそ1年を要したが、名古屋港第四期工事で埋立が完了したばかりの第10号地が条件をある程度満たすことが分かり、仮飛行場の建設予定地として選定された。

昭和9年3月、逓信省の代理として日本航空輸送株式会社の重役が第10号地を視察に訪れ、仮の飛行場として問題無いという判断を下した。10月愛知県知事より第10号地の使用が正式に許可され(期間は昭和9年10月1日から昭和13年9月30日まで)、10月1日、日本航空輸送(株)により東京〜大阪間の定期便のうち1往復が寄港することになった(後に増便)。合わせて郵便専用機や仮飛行場建設の出資者でもある愛知時計や三菱による軍用機の試験飛行離発着にも使用された。
当時の地図を見ると仮飛行場でありながら「国際飛行場」と記載されている。関係者達も国際便運行に向けて奔走したようであるがなかなか実現にこぎつけることができなかった。


−新飛行場建設−
新飛行場建設地予定地は第8、9号地の南方が候補となっていたが、天白川の補修工事による流水の影響が大きいことなどから新たに仮飛行場のある10号地南方を埋め立てて造られることになった。これにより昭和8年4月、先に出されていた公有水面埋立免許の申請を取り下げ、新たな場所にて申請が行われた。当初は10号地南方の突堤を中心に東西に埋め立てが行われる予定であったが今度は庄内川改修の影響を受けることが判明、昭和8年12月に再度申請を取り下げ、突堤の西側部分に移動した場所で新たな申請が行われた。

当初昭和8年の着工予定であったが予算の関係上1年遅れた。昭和9年9月内務大臣の新飛行場埋立許可を経て10月に着工した。予定工期は5年であったが日中戦争勃発による資材・人員不足から工事は遅れ、予定の昭和13年中の完成は難しくなった。仮飛行場の使用期限は昭和13年までであったため、期間延長されて昭和16年3月までとなった。
昭和14年7月に11号地の埋め立てが完了、16年3月、県より第11号地を名古屋飛行場として20年間無償貸与された。
しかし飛行場建設の華やかさとは反対にその前年の12月には名古屋港の観光案内所が廃止されている。すぐそこまで戦争の足音は近づいていたのであった


−新飛行場開港−
昭和16年10月1日、新たな名古屋飛行場が第11号地に開港した。照明や格納庫など斬新な技術も取り入れられたようだが、「あいちの航空史(中日新聞)」によると肝心の滑走路は土が締め固まらずひどい状態であったという。柔らかい土に飛行機の車輪が沈んでしまい、まともな離発着ですら難しかったようである。打開策として石炭ガラを敷くなどされたが根本的な解決には至らなかった。


−飛ばない民間機−
しかしそれは大きな問題にならなかった。定期便は飛ばなかったのである。
昭和15年、新飛行場への施設移転のためその機能を停止していた仮飛行場への定期便寄港は廃止されていた。当然、新飛行場開港に合わせてこの定期便は再開される思われていたが、迫り来る戦争を前に再開の目途は立たなかった。新飛行場は三菱や愛知時計で製造された海軍機のテスト飛行・輸送基地として使用されるのみであった。関係者達は定期便の再開を願ったが、昭和16年12月には太平洋戦争開戦、続いて戦況が悪化に至りそれは絶望的となった。
軍用機ばかり飛び立つ飛行場となった名古屋飛行場であるが、大型機が離発着するには滑走路が短かったため、軍からは滑走路延長の命令が下った。この延長工事のため飛行場は一時閉鎖されたが、それも果たせないまま終戦を迎えた。


−終焉−
昭和20年9月30日、航空局への第11号地貸与の契約は解除され、名古屋飛行場は米軍に摂取された。摂取後は飛行場として使用されることは無く、通信基地となっていたが広大な敷地の大半は荒れるにまかせた状態であったという。
その後日本の航空事業が再開され、日本各地の空港から旅客便が飛び立つ時代がやってきた。名古屋でも昭和27年3月、日本航空による東京〜大阪便の寄航が再開されたが、この時使用された空港は名古屋飛行場では無く、陸軍基地から転用された小牧飛行場であった。
名古屋飛行場跡は後に日本に返還されたが、再び航空機が離発着することがないまま工業地帯に埋れ、痕跡すら残さないまま姿を消した。



仮飛行場は「国際」の名を冠しながら果たせず、本格的な飛行場として建設された新飛行場はその「仮」飛行場ほどの役割を果たせないという皮肉な結果となった。
しかし飛行場のあった名古屋港はその後発展を続け、現在では日本最大の貿易港として海外と深い繋がりを持ち、小牧飛行場(後の名古屋空港)を経て2005年に開港したセントレアは「中部国際空港」としてその名前に「国際」の文字を再び冠することになった。両空港が名古屋に残したものは決して大きなもので無かったが、「名古屋を一流都市に」という先人達の想いは陸と空に受け継がれているのではないだろうか。

写真、地図、その他資料提供 名古屋港管理組合



(名古屋港管理組合 提供)
昭和15年に完了した「名古屋港第四期工事」時点における名古屋港の地図。
九号地や東海市沿岸の埋め立てはまだ完了していないが、大方現在の姿に近いものとなってきている。

地図左下の赤い四角形部分が「名古屋飛行場」。

縮尺は異なるが現在の名古屋港周辺の地図。あおなみ線「野跡駅」の南側が名古屋飛行場、東側が仮飛行場であった。

拡大した地図。
「第十一号地 航空場」の記載があるのは昭和15年にはほとんど完成していた名古屋飛行場。北東の赤い部分が仮飛行場であった場所。


(名古屋港管理組合 提供)
「名古屋港将来計画地図」。
文字通り将来の名古屋港の工事計画に基づいて描かれた地図。

飛行場は特に変化は見られないが、十号地の突堤(というのか?)が増えている。

名古屋国際仮飛行場
昭和12年の名古屋市地図。
左下部分に「至 国際飛行場」の記載あり。


いつ撮影されたものかはっきりしないが、仮飛行場があった当時の10号地の航空写真。
写真左側に見えるのが大きな建物が格納庫、突堤手前部分が水上機用のスリップと思われる。

名古屋港管理組合さん曰く、本邦初公開の写真。


船舶行き交う名古屋港を前にする仮飛行場。出迎え客だろうか、機体の近くまで自転車を寄せているのに時代を感じる。

(名古屋港管理組合 提供)


上とほぼ同じ角度から撮影したと思われる写真で、背後にやはり船が見える。飛行機はこちらの写真の方が分かりやすい。

昭和21年に撮影された名古屋仮飛行場、飛行場部分の航空写真。
(画面にカーソルを合わせてね)

左上に戦争遺跡特集でも紹介した永徳スリップが見える。

昭和21年(米軍接収後)に撮影された10号地(仮飛行場)の航空写真。
10号地中央に南北に走る滑走路跡らしきものが見られる。

仮飛行場時代の地形図。
昭和21年の航空写真で見られる突堤部分がまだ完成していない。

航空写真(特に仮飛行場時代)と比較すると突堤の位置や埋立区域が若干異なっている。

仮飛行場部分の拡大。
南西部分(格納庫?)と北東部分(事務棟?)に建造物の記号。
郵便専用機も飛んでいただけあって、北東部分には郵便局の記号が見える。

名古屋飛行場



(名古屋港管理組合 提供)
「名古屋飛行場整備計画書」から書き出した滑走路。

計画書なのでこの通りに完成したかどうかは不明(終戦後の航空写真を見ると格納庫は大きくなっている)だが、風向きによって使い分ける複数本の滑走路があったのは間違いないと思われる。

整備計画書では滑走路は700m×3本、これに格納庫や格納庫から伸びる誘導路、そして南西端には水上機用のスリップが描かれている。
赤い線は修正案か当初案のどちらからしく、若干の計画修正があったようだ。

昭和21年(米軍接収後)に撮影された11号地(飛行場跡)の航空写真。

右上の格納庫など、計画書と異なる部分も多々あるが、左下の水上機用スリップなどは計画書通りに築かれている。
元々舗装されていないこともあって、はっきりとした滑走路の痕跡は見えないが、計画図にあるものと近い感じでうっすら線が残っている(数字の「4」を斜めにした形状)。

埋立地東側を中心に爆撃による穴が無数に開いている。

昭和24年に撮影された11号地(飛行場跡)の航空写真。
写真のせいもあるが荒れた感じの昭和21年のものと比較して整地された感がある。右上の格納庫などはそのまま残っている。

写真には計画図には無い長方形状の道路が整備されているが、これがいつ頃造られたものかは分からない。また、この道路が飛行機の離発着に影響があったものかどうかも分からない。
仮飛行場と異なり、民間機が飛ばないまま軍に接収されたためとにかく不明な点が多い。


整備計画書と現在の地図を重ね合わせたもの。多少のずれはあると思うが大方こんな感じだと思われる。
現在の地図だけ見るとあおなみ線の西側を南北に走り金城橋につながる道路が滑走路だと考えてしまうが、実際の滑走路は現在の新日鉄/東邦ガス工場内にあった。

昭和36年に撮影された11号地(飛行場)の航空写真。
右側の埋め立てが開始され、中央の巨大建造物をはじめとしていくつか新しい建物が建てられている。

滑走路・誘導路跡はほとんど姿を消し、昭和20年代の地図に見えた長方形状の道路も中央部分付近で見えなくなっている。

スリップ跡も放置されてかなり荒れている状態に見える。

昭和20年の名古屋港地図。
激しくなる戦況の中、9・10号地(仮飛行場)に高射砲、11号地(飛行場)に高射機関銃隊の文字が見える。

飛行場のある11号地の形状(特に南側部分)が他の地図や航空写真とかなり異なっているが理由は不明。

現在の名古屋飛行場跡航空写真。

中央の赤い長方形屋根の建造物は上の航空写真で確認できるものと同じらしい。


仮飛行場があった10号地から飛行場方面を撮影した地図。奥に見えるのが飛行場格納庫。

(名古屋港管理組合 提供)

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