明治海軍航空隊基地跡 その1 (安城市 2008/7) |
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愛知県内の戦争遺跡としては割と有名で探索もしやすい。 それでも数年前に探索したが下調べがずさんで見つけられなかった。因縁のある遺構。 戦況の悪化により航空隊・搭乗員の拡充を図るためにつくられた基地。 昭和18年(1943)春から半強制的な土地の買収、多数の地元民や学生を動員した建設が進められた。 昭和19年(1944)より工事と並行して一部使用開始。9月搭乗員養成を目的とした第二一〇海軍航空隊が開隊。 多種類の機種の搭乗員を養成させるため、配備航空隊が多い(零戦・紫電・月光・彗星・天山・彩雲・九九艦爆)のが特徴。航空機200機、約3600人所属。名古屋へ来襲するB29の迎撃などに出撃。 昭和20年(1945)1月13日、三河地震により周辺地域に大きな被害が出たため、被災者の救出・災害復旧などにあたる。 3月天一号作戦(沖縄特攻作戦)に多数の隊員が参加。 春以降、米軍による空襲・機銃掃射による被害が増大、この頃になると迎撃はほとんど行われず、使用できない機体をおとりとし、使用できる航空機は掩体壕に隠すことが多かった。 終戦間近になり、東海地区の基地として零戦などが集められるが、全盛期の200機を大きく下回り、50機となる。 敗戦後、米軍などにより残った戦闘機は破壊される。 |
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燃料油庫 何やらだだっ広い空き地の奥にあり、道路からもすぐ分かる。 資料を見ると、近くに機銃陣地があったとされるが痕跡なし。 |
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幅、高さ共に約2m。 | ||
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出入口。 何の問題もなく、中に入ることができる。 奥に若干の荷物は見られるが、よく見かける農機具倉庫への転身はないようだ。 |
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奥行きは10mほど。 側面と上のアーチ部分で造りが異なる。側面と奥面は型枠にて、上部分は土をアーチ状に盛った上にコンクリートを打ち、その後土を取り除いて造ったものらしい。 |
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確かに上部分には土が残っている。 | ||
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よく蒲鉾状と紹介されるが、出入口部分の出っ張ったコンクリートのせいで、自分には糸巻きのボビンっぽく見える。 | ||
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側面部分。 上の方はコンクリートむき出しであるが、側面部分は土がのっており、草が生い茂っている。 |
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こうやって撮影すると、更にボビンチックだ。 | ||
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明治航空隊碑のある東端公園の北側にある八剣神社。 碑を見る時の目印となる。 今回は「朱印倶楽部筆皇」の首領である筆皇と行動したが、共に「朱印をもらっていこう」という一言は出なかった。 既に終わっている「朱印倶楽部筆皇」。 |
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八剣神社と道路を挟んで反対側にある東端公園。まずは「殉国戦士の碑」が見える。 | ||
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公園の南端部分に「明治航空基地之碑」が建てられている。 | ||
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碑下部の説明板その1。 |
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碑下部の説明板その2。 こちらは基地の地図が描かれており、地図が苦手でなければ当時の様子を窺い知ることができる。 六本ある滑走路の内、大半は右から二本目の滑走路が使用されたとのこと。滑走路幅は50m、うち舗装は25m。 公園の南側に防空壕があるはずなのだが、残念ながら見つけられず。 草が生い茂り、体力的にもきつい夏は遺構見学には向かないシーズンだ。 |
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説明板の地図とGoogleの地図を重ね合わせたもの。目で見ながら合わせたもので、正確なものではない。そもそも説明板地図の縮尺や方位はあまり正しくない様子。したがって説明板地図は縮尺などかなり手を加えている。 遺構は以下が全てではないが、大半は南地区にあったものとなっている。また見つけられたなかった防空壕(飛行隊指揮所とされる)も(2)付近にあったとされる。 (1)燃料油庫 (2)燃料油庫・付随施設 (3)弾薬庫 (4)明祥中学校(隊門など) (5)格納庫基礎 |
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同じくGoogleの地図と昭和22年の航空写真を重ねたもの。 さすがに写真だけあって、方位と縮尺を合わせてやると地図とピタリと合う。 航空写真が小さくなってしまったの分かりにくいが、明祥中にある兵舎や滑走路の位置関係などは識別できる。 |
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昭和22年の米軍撮影航空写真。 一部破壊・解体されているが、滑走路の跡がはっきり分かる状態で残っている。 |
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上記写真の左上部分拡大。 (2)燃料油庫・付随施設 (3)弾薬庫 (4)明祥中学校(隊門など) (5)格納庫基礎 (3)の弾薬庫などは現在破損著しい西側の方が大きい建物であったようだ。残存する一部の兵舎や格納庫も見られる。 |
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