内海サンドスキー場跡 その1

知多の特集で、色々調べていると度々目にした「内海サンドスキー場」。
戦前から戦後の資料によくその名を見かけ、当時かなり力が入っていたスポットであることが感じられるのだが、インターネットで調べても詳細なことはほとんど分からない。
知多の観光が一番輝いていた時代、どこにどのようなサンドスキー場があり、どうやって消えていったのか?そしてその痕跡を留めるものはあるのか?
こつこつ集めてきた資料と跡地の実施検分をレポート。


廃墟好きより遥かにマニア人口が少ないと思われる「跡」好きなあなたに捧げるレポートでもある。


※内海サンドスキー場について引き続き情報を集めています。「滑った記憶がある」、「古い写真を持っている」という方はメールにてご連絡いただければ幸いです。
 <当時のパンフレットの表紙>

当時の内海サンドスキー場のなりたち
この地では海岸から季節風によって吹き上げられた砂が堆積して砂丘を形成していたが、木曽三川から運ばれたこの砂丘の砂はガラスの原料となる桂砂で、粒度的にも極微粒で最適であった。明治期より砂の採取・販売が行われ、かなりの収益を上げていたようである。昭和に入ると、内海は海水浴場、保養地として注目されはじめ、別荘や旅館などが建ち並びはじめた。

昭和7年5月、この地に別荘を建築していた名古屋の中野静の紹介で、名古屋のアマチュアスキークラブNSC(名古屋アマチュアスキークラブ)がサンドスキー場としての調査を開始、その結果、雪上スキーと大差のないサンドスキーとしては最適な砂であることが証明された。
翌月5日、内海商工会・知多自動車・当地区の主催、名古屋新聞・大阪毎日新聞・愛知電機鉄道・知多電気鉄道の後援でサンドスキー場が開場し、同時に記念競技大会(ニキロリレー・キロレース・300m滑走)も開催された。当日は近県や関西から2万人にもおよぶ観客が集まった。これは当時の南知多町の人口とほぼ同じである。11月にはアメリカのFOX社によって映像ニュースとして全世界に紹介されている。
スキー場は誰でも自由に入場することができ、貸スキーや売店などで利益を上げていたが、これだけでは初期投資の回収が難しかったため、商工会や知多自動車等から寄付金を得ていたようである。

開業から数ヶ月が経て、多くの観光客を集める一大観光スポットとして知られる存在になると、旧区有地だけではコースが手狭で設備に貧弱さも感じられるようになった。翌年、林八十吉と林勘兵衛はこの地区54名の総代として、当時の大蔵大臣高橋是清に事業計画書を提出する。これは砂防地として払い下げを受けていた土地の払下契約を変更し、宿泊施設や休憩場、浴場、児童遊技場を建造しようというものであった。これには砂が移動してしまわないように砂防工事が含まれている。更に夏となり、真昼の暑さを避けて日没後の滑走を希望する宿泊者や別荘滞在者からの声が高まると、六基の電燈がつけられ、ナイター滑走も楽しめるようになった。

鉄道会社などの活発な宣伝効果もあり、海水浴場と共に内海の観光拠点となったサンドスキー場だったが、太平洋戦争が始まると、砂丘の砂はガラスの原料として再び採取されはじめ、スキー場として成り立たなくなってしまった。それどころか戦況の悪化で、庶民はレジャーどころではなくなってしまっていたのである。
こうしてスキー場としての正式な終焉がないまま自然消滅を迎える。
南知多町誌によると昭和32年まで営業していたとある。ただし町の社会教育部によると営業終了時期は不明とのこと。もともと休憩所や貸スキーなどで収入を得ていたため、こうした営業が終了してもスロープが滑れる状態で残っていればスキー場としては存続していた形となるため判断がつきにくいと思われる。どちらにしても規模はかなり縮小しており、最後は小スロープ(社会教育課によると白浜スロープ?)のみが残っていたとされる。また、どのスロープか不明であるが、昭和29年にスキー場跡に名鉄バンガロー村ができている。

その後終戦を迎えたが、砂の採取で山の姿はすっかり変ってしまっていた。そもそも戦中戦後の窮乏の中で営業再開がなされるはずもなかった。それでも一部のスロープは昭和40年初頭まで残っており、地元のスキーヤーや子供達の遊び場となっていたが、それもいつしかなくなり、山は荒れるにまかせたまま現在に至っている。

昭和7年6月のオープンセレモニー時の写真。
後述の内海サンドスキー小唄/内海音頭を披露中。内海音頭は昭和4年に作られた曲で、地元も普及に力を入れていた。

聞き込みで得た内容
・実際それほど外部からの客というものは見られず、地元の裕福な人間が多かったらしい。
・スキー神社の存在を知っている人はいなかった。ただし山頂に「山神」を祀る小さな木製の祠があったらしい。
 これがスキー神社であったかどうかは不明であるが、他にそれらしい祠や鳥居などの存在は知られていないた
 め、これがスキー神社であった可能性が高い。
・戦中の砂採取の再開は表富士スロープ、白山スロープあたりから始まった。裏富士・吹越スロープは砂の採取
 開始が遅かったため、戦後もスロープが残っていたのではないか。
・貸スキーを兼ねた売店近くにコンクリートで舗装された区画があり、それが児童遊技場だったのではないか。
 遊技場というよりローラースケート場のようであった。
 (ローラースケートは昭和初期にはそこそこ流通していたらしい)
・当時山に生えていた木は松が多かった。これは防砂林用に植えられていたものだろう。
・西側のスロープは傾斜は急だが、距離が短かった。
・昭和40年台初頭くらいまでは看板も残っていた。
・昭和50年台初頭くらい(?)まではスロープが1本残っていたと思われる。町の社会教育部によると白浜スロープ ではないかとのこと。
・自分が持っている昭和40年1月発行の地図にも「内海サンドスキー場」の記載あり。


当時の内海サンドスキー場案内文章
千鳥ヶ浜の西方に残る雪かと見粉ふ世界一のサンド・スキー場が見える、内海の街から八百米突西方野間行バスに乗ればスキー場まで僅かに三分、山麓に休憩所、弁当、貸スキー等あり、握り飯は一食十銭、スキーは一日三十銭で賃貸し初心者も容易に練習が出来る。殊に最近酷暑期になつて夜間練習者が多くなり表富士スロープ、白山両スロープに六ケ六千燭の電燈がつけられ恰も白昼の如くなった、銀砂をけつて滑走する快味は想像外のもので実に脅威の外はない、積雪上と変らぬスピード、然も冒険、クリスチヤニヤ、ジヤンプ等凡ゆるテクニツクを完全に楽しむことが出来る。
各スロープ 白山スロープ百米、表富士スロープ八十米、ジヤンプ台あり奥富士スロープ六十米、裏富士スロープ百十米、吹越スロープ百十五米、千鳥スロープ百卅五米、白浜スロープ百米等の各スロープあり。


当時の案内図のアップ。7つのスロープとジャンプ台、売店の姿が見られるが、山頂のスキー神社なるものが興味深い。


当時の案内図や聞き込みを、現在の3D地図と重ね合わせたた画像(※個人的に作成したもので正確さを保証するものではない)。山の形が現在と異なっているので比較しにくいが、当時は南知多町郷土資料館(旧内海高校)のあたりまでスロープがあったらしい。

現在南知多郷土資料館となっている旧内海高校の裏手にある山が旧サンドスキー場。現在遠目にその面影はほとんど残っていない。


戦前の内海サンドスキー場バンフレット。映像が世界に発信されたこともあり、「世界一」と誇らしげに謳っている。
この当時良く書かれた大正広重こと吉田初三郎の鳥瞰図。かなり広角なデフォルメを行って描いたその作品には遠く富士山も姿を見せている。


パンフレット裏面。
左上にナイター照明下における写真が掲載されている。

パンフレットにも書かれている「内海サンドスキー小唄」


(1)アー 尾張内海富士ヨ(ドッコイショ)名の出た所
  サンドスキーじゃヤンレサンドスキーじゃ日本一(ハヨイト^スイ^)
(2)アー 内海白山ヨ(ドッコイショ)乙女の肌よ
  乙女可愛や ヤンレ 花の笑顔でサンドスキー(ハヨイト^スイ^)
(3)アー ゆこよ白山ヨ(ドッコイショ)すべろうよ若人
  花の笑顔が ヤンレ スキーしましょうと眼で誘ふ(ハヨイト^スイ^)
(4)アー 沖のかもめがヨ(ドッコイショ)わらをとまゝよ
  すべりませうよ ヤンレ サンドスロープどこまでも(ハヨイト^スイ^)


一部歌詞と歌詞カードが異なるのは本当は八番まであるから。


パンフレット案内図全景。山の奥には幅の狭い林間コースのようなものもあったらしい。現在残る遺構はこの林間コースらしきスロープのみ。

昭和11年12月に発行された名鉄(名古屋鉄道)の路線図。名鉄はこの年の前年に名岐鉄道と愛知電機鉄道が合併して成立した。

サンドスキー場。
和服姿の女性が見学しているが、どうもゲレンデで滑っている様子は見えない、不思議な写真。
(スロープ不明だが白山スロープか?)。

髷姿で滑る女性。
パンフレット用なのかもしれないが、親父シャツにステテコで滑ってるように見えるのは自分だけだろうか。

こちらはサンドスキーらしく水着での写真。

背景からオープンセレモニーとほぼ同じ場所、おそらく表富士スロープと思われる。

白山スロープ。
スロープとしては傾斜が緩やかで、初心者向けだった。

当時の著名なスキーヤーもオープン時に多数招待されている。サンドスキーということで馬鹿にしていたが、実際雪上で使用するテクニックがそのまま使え、練習にはもってこいだという文章が残っている。
本音なのか、宣伝用のものなのか。

奥富士スロープ。
スロープの中では傾斜がきついコース。
それでもカメラを傾けて撮影した写真であり、実際の斜度は最高でも20度ほどだったらしい。

スロープ幅が広く、傾斜もきつかったらしい表富士スロープ。
スキー板にワックスなどを塗ると、100mを2秒前後で滑り降りることができたようだ(当時の資料による)。

表富士スロープ。
スロープの幅は広く、白黒だと本物のスキー場と見紛うほど。

スキー板を後に積んでスキー客を運ぶバス。バスの名前は「あおば」。
「知多自動車」が運行していたと思われる。

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