南吉は大正十一年、小学三年生の時から日記を書き始め、死の前年昭和十七年まで続けている。体の調子が著しく悪い時や精神的ショックの大きい時等に一時的な中断も見られるが、その人格を窺い知るには絶好の資料である。また南吉は自分の日記が将来一目にさらされるであろうことも考慮していた節があり、そのあたりでも非常に興味深い。
日記以外の数多くの人に出した手紙や自分が教えた生徒の追憶を一部紹介したい。


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 オリンピック出場選手、日比野寛が来校した際のマラソン大会で
「午後、日比野と言うマラソン狂人が来て、学校全部を挙げて、長距離をやらされたので、ヘトヘトになった。」
 1929.3.29 中学校3年生 豊橋中学校校友誌の出来が良いのを感心した後で
「併し、よくよく考えてみると。何も羨む必要は無い。作文に於いては。彼は余に優れているが、児童文学に於いては、おそらく余が優れているだろうからだ。人間は、たった一つの事に長ずれば可也だ」
 1929.6.6 
物語「巨男」脱稿。弟に読むで聞かせたら、終に至って。涙を流しおった。俺の作品にも値がついて来たというもの。
 1931.5.2 半田第二尋常小学校代用教員時代 
生徒に信頼される教員は自分だけでよいという強烈な独占欲が見られる日記。ただしこの教員としての心理は大なり小なり理解できるものであると思う。
子供達に信頼され、子供達を愛してゆく、小学教員と言うものが、世の中に、たった私一人きりだと好いのだが。日本の国のどこへ行っても、子供達と温かいものをかもしあってる小学教員が、無数に存在しており、無数に存在していた事をを思うとき、私はたまらなくわびしくなる。
 1935.8.15 友人河合弘に出した手紙
4年間交際した木本咸子と別離後、やけになって友人河合弘に出した手紙。
咸子は代用教員時代の受け持った生徒の姉。健康上の不安や経済力の無さなどから、結婚に踏み切ることができない南吉と別れ、別の男性の求婚を受け入れた。
河合、ぼくはやぶれかぶれの無茶苦茶だ。やぼったくれの昨日と今日だ。雨だ、雨だ。




→「去りゆく人に」
 1937.2.7
南吉は日記自体も創作活動の一つとしていたきらいがあり、全てを事実として受け取ることはできない。親友の河合弘もこの点を指摘している。
私の認識はいつも誇張されている。
 1937.3.1
人というものは皆究極に於てエゴイストであるということを知る時われわれは完全な孤独の中につきおとされるからである。しかしここでへたばってはいけない。ここを通り抜けてわれわれは自己犠牲と報いを求めない愛との築設に努めなければならない。こういう試練を経て来た後の愛はいかにこの世をすみよいものとすることであろう
 河和小学校代用教員時、生徒の南吉像
教員時代をはじめ、南吉の写真は数多く残されているが、笑顔を見せている写真は非常に少ない。
背が高く、目が落ち込んでいて、声は涸れていて、笑い顔ひとつしない。ドッジボールひとつしない。
 河和小学校代用教員時、巽聖歌に出した手紙
ぽくは、四月から河和という海ぞいの小さい町で代用教員をしています。
半田から三十分南へ走って終点につくと、そこに波の音をきくことができます。ここが河和です。ひじょうに、なごやかな、美しいこころよいところです。
ここでぽくは、かりそめの、ささやかなしあわせを、あじわっています。こんなところに、こんなしあわせがあろうとは、つゆ知りませんでした。
生きていることは、むだばかりでないことが、これでわかりました
 1937.11.4 友人河合弘に出した手紙
南吉の日記や手紙には、人には良い部分と悪い部分があること、人生には幸も不幸もあることを述べている記述がよく見られる。
だが戦争も貧乏も病気もその他あらゆる不幸もすべてさけられないものに違いない。社会の裏側にそんな暗いところがあるからこそ表側に美しい平和と富有と健康がありうるのだ。植物を見給え 暗い土の中で一生を過ごすある根がなかったらどうして美しい花が咲こう
また誰が花の役割を演じてもいいじゃないか
 1937.12.14
南吉は甘いもの好き。無邪気内容が微笑ましい。
昨日は、菊屋という製菓屋で、むしようかんを一本とウイローを二つ、十銭で買ってきた。今日は、すこし大きな近代的な店で、栗ようかんを二本と、一つ一銭のカステラを十買ってきた。か しをポケットに入れて帰る楽しさは、子どものころからたいしてかわらない楽しさだ
 恋人だった中山ちゑの弟、文夫から見た南吉
質問にはぐらかした返答をし、腹を立てる文夫の反応をみるなど、南吉らしいといえば南吉らしい行動であるが、対象とされる人間からはあまり気分の良いものではないだろう。ただ、そのひねくれた南吉がなぜ色々な人から愛されているかの質問に対して、好悪とは別の冷静な返答をしている。
腹のたつ奴、嘘ばっかり


でもこう思います。本人の本当の姿は作品のとおりであって、普段日常に出しているひねくれた姿は仮のものなんじゃないでしょうか。南吉の本当の姿を知りたければ彼の作品を読むことです。
 安城女学校教員時代、生徒の南吉像
南吉の感受性の高さが見られる。高校生から見てもたわいもない事を大の大人が真剣になって話しているのに不思議な感覚を持ったようだが、慣れてくると微笑ましくも思えたことだろう。
朝、「学校へ来る途中、池が凍っていたので、石を投げてみたら、キュルキュルキュルと、すごくいい音がした。」はしゃぐ先生に不思議な感覚を持った。
 安城女学校教員時代、クラスの詩集最終号あとがき
ささやかないとなみでしたが二月に始めた詩集-詩集というのも可笑しい位のものですが兎も角第ニ、第三と続いて遂ゝ第六まで来ました。だがもうこれで当分やめねばなりません。戦争のため我々が喜んで忍ばねばならない不自由な中に紙の不足があるのです。それが遂に学校の中にもやって来た。紙商人はもう要るだけの紙を持って来てはくれません。何処にも紙がないと言います。詩が続かなくて止めるのではない、紙が足りないから止めるのです。だから紙が再び豊富になる時が来たら、そしてその時みんなの中に詩心がなおあるならば我々は再びこの細いいとなみの糸を操りたいものです。早くその日が来るといい。祖国のために。詩のために。
 安城女学校教員時代 生徒の南吉像
「片方の肩(左肩?)が下がり気味」という印象は多くの生徒が持っていたようで、南吉の大きな特徴であったらしい。また放課後など芝生にいる姿が良く見られたらしく、座ったり、寝転がったり、草をむしったりしていたらしい。南吉自身の日記にも草をむしったという記述がいくつか見られる。
・どちらかの肩が上がり気味で歩き方にすごく個性があった。
・ちょっと肩を斜めにして歩く姿が思い出される。
・学校の芝生の中で寝転んではよく雲を見ていた。
・校庭でしゃがんで芝生の草取りをしていた。
・音楽の先生と放課後など芝生に腰をおろして、楽しそうに話をしていた。


・生徒をよく観察していて努力すればその様に評価してくれた。
・出来ない生徒は廊下に立たされた。とても厳しかった。
・英語の教え方が上手で、はやく覚えることができた。
・卒業謝恩会で生徒と共に壇上で楽しそうに歌っていた。
・生徒の様子を毎日確認し、小さな事でもよくご存じだった。
 安城女学校教員時代、クラスの詩集最終号あとがき
 1940.2.15
当時の神道的な講演会について。南吉らしいストレートな悪口。
この頃はやりの、何でもかんでも日本は有難いくに、よい国、なんでもかんでも西洋は個人主義の嫌らしい国という千ぺん一律の話をするくそ面白くない会のひとつだ。
(中略)
話は退屈きわまるので、お義理にもきいていられない。長く長くつづけられる。何と辛抱強い聴衆だろう。四時間、五時間。うす暗くなりかけた頃、講堂の方にあたって万歳三唱の声が聞こえた。みんな、日本はよい国であることを納得し、支那はやっつけられていること、米国も英国も恐るるに足らないことを納得し、ついに会は終わりをつげたのだ。
 現代の日本の風景。何という暗い、何という非文化的な。
 1940.9.22 友人河合弘に出した手紙
外語学校時代に知り合い、死の直前まで親友であった河合弘に対し、南吉は病気(河合も結核をわずらっていたことがある)や恋愛、教育、戦争など人生観について深く語り合っている。なかなか人に心を開かない南吉にとって数少ない心許せる友人であったようだ。


卒業後も続いた二人の親交であったが、南吉から依頼された睡眠薬の送付を河合が拒否したため絶縁状態となった。河合のもとに南吉から絶縁状が送られてきた数日後、南吉の葬儀を知らせる葉書が届いたという。
河合が保管していた南吉からの手紙は27通にのぼる。
教育会。こんな嘘だらけな世界はもういやだ。沢山だ。げろ。
子供は美しい、純真です。ハァそうですか。
英語を教えるのは無意味です。そんなら国語を教えるのは意味があるのですが。そりゃあるよ。国民文化の何たるかを知らしめ、国民性を培うのだから。顔を赤くせずによくも言えたものだ。愚劣だ。愚劣だ。愚劣だ。かくて百遍。
 1941.12.13
テーマ、電燈が村にはいって来て、ランプの需要がなくなったのでもとの乞食商売にかえったランプ売について書くこと。
 1942.3.17
卒業生の色紙に
けさ大きい雲が来た
花束を満載して
 1942.5.28
〜 それで少し顔をしかめながら戸田先生のうしろに、そのうすぎたない禿頭を見ながら立つ。〜
 歌見誠一に出した手紙
借りていた「赤い鳥」を返す時につけた手紙で、古きを褒める傾向を持つ北原白秋に対し、あまり良い感情を持っていない様子が伺える。
白秋先生はとかく(赤い鳥)前期の人々をほめて、復活期のつどった人々のはきなさをせめられたのですが、〜(中略)〜もう少し勉強の期間が与えられたならば、われわれだとて、前期の人々に伍してゆけたのです。
 1942.7.3
激しくなっていく戦争に対して。
果たして平和が常態なのか。
戦いが常態であって、平和は戦いと戦いとのすきま、つまり変態にほかならぬものではあるまいか。戦いが常態であるならば文学をすることも学問をすることも(実学以外は)何と無意味なことであろうか。
 1942.7.10
よのつねの喜びかなしみのかなたに、ひとしれぬ美しいもののあるをしっているかなしみ。そのかなしみを生涯うたいつづけた。
 死去直前、お見舞いに来た卒業生に漏らす
生徒の一人が献身的な看病をする義母を見て、「良いお母さんですね」というと、部屋を出たのを見計らったように「どうしても許せない」とつぶやいた。
 卒業生佐薙好子に出した手紙
そんなに遠くまで、心配をかけて申しわけありません。
のどがわるいので、いっさいのお見舞をおことわりして、ふせっています。
たとい、ぼくの肉体はほろびても、君達少数の人が(いくら少数にしろ)、ぼくのことをながくおぼえていて、美しいものを愛する心を育てていってくれるなら、ぼくは、君達のその心に、いつまでも生きているのです。
つかれるといけないから、これで失礼。
 1943.1.13
最後まで自分は生徒達に自分の死の間近なことをほのめかしたり、涙をこぼさせたりすることはやめよう。キ然として逝こう。
 1943.2.26
死の一ヶ月前、卒業生高正惇子に出した手紙
いしゃはもうだめと
いいましたがもういっぺん
よくなりたいと思います
ありがと
ありがと
今日はうめが咲いた由
 「小さい太郎の悲しみ」
或る悲しみは泣くことができます。泣いて消すことができます。
しかし或る悲しみは泣くことができません。ないたって、どうしたって消すことはできないのです。

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