新美南吉は喉頭結核の為、二十九歳で亡くなった。そのなんとなく哀しい作風や短かった寿命からただ清らかなイメージだけを持っていたのだが、この特集を組むにあたり、色々調べてみるとそれまでのイメージが色々な意味で壊された。代用教員の時には児童に対し独占欲丸出しの日記を書いてみたり、師範学校に落ちた時には同じ理由で落ちた学友をこきおろしてみたりと、実に生な人間の感情を見せている。そしてその生な感情が作品に色濃く反映していく。
ほんのさわりだけの年表ではあるが、少しでも南吉のイメージに色がつけられれば幸いであると思う。

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南吉関係図
1913-1928
0歳〜15歳
1913年(大正二年) 誕生

7月30日、現在の愛知県半田市(当時半田町)岩滑で渡辺多蔵、りゑ夫婦の次男として生まれた。名前は正八、父多蔵が好んでいた講談に出てくる豪傑梁川庄八をもじったものらしい。そして、この名前は明治45年、生後わずか18日で亡くなってしまった兄の名を受け継いだものでもあった。

南吉誕生後、母親は体調を崩した為、ほとんどその温かみを受けることができなかった。






1917年(大正六年) 母の死

南吉4歳の時、病気がちだった母りゑが29歳で病没(結核らしい)した。その後、父親は家を空ける事が多くなり、この間、主に隣家の森はやみに子守をしてもらっている。
「幼年時代はやみちゃんに守して貰ったのだが、彼女は余を膚身につけて余を愛してくれただけに現在の母よりも返って彼女の方に母のような懐かしさを覚える」(1937.2.26)

その半年後、多蔵の後妻に酒井志んが入り、南吉の継母となる。そのあまりに早い再婚は幼い南吉にとって、大きなショックであったことだろう。後に成人した南吉は、まわりの大人に対して攻撃的な表現をする事が多くなっていくが、この父親の(南吉にとっては)裏切り行為とも言える出来事も原因の一つになっていったのではなかろうか。
そしてその継母に対し南吉は、後に手紙で「継母は自分をいじめる」と書いているが実際にはそのような事はなかったようだ。しかし商売上手で世間体を気にする継母に対し、「狐」に見られる「自己の全てを愛してくれる優しい母親像」を見出すことはできずにいた。


1918年(大正七年) 異母弟誕生

異母弟益吉が生まれる。南吉とは腹違いなのだが、近所にも評判の仲の良い兄弟で、南吉が腎臓を患ったときには、遺書をこの弟に宛てに書いている。南吉没後、益吉は出征先のフィリピンで病死してしまい、三兄弟、誰も30歳の誕生日を迎えることはできなかった。


1921年(大正十年) 養子先での寂寥感

南吉八歳の時に叔父(実母の弟)鎌次郎が30歳で病没した。母、叔父と続けて30歳前後で鬼門に入ってしまい、南吉はこの頃から自らの身体について漠然とした不安を感じていたようだ。後に日記にこう記しているが、不安は不幸にも的中してしまうことになる。
「我が母も我が叔父もみな夭死せし我また三十をこえじと思ふよ」(1931.2.14)

父多蔵と祖母(母の継母)志もが話し合った結果、同年七月、南吉はこの跡継ぎを失った母の実家に養子として入ることになり、「新美正八」として血の繋がらない祖母と二人きりの生活をはじめた。
新美家は倉や厩(うまや)を持つほどの富農であった。その必要以上に広く、暗い家の中でおそらく南吉は、狭いながらも家族と暮らす生家、近くの遊び場を何度も思い返したことだろう。

一緒に暮らす祖母は子供を育てた事がない為、南吉をどう扱ったら良いか分からなかったようだった。南吉はそんな祖母の心境を理解しつつも、関心を得ようとしてかイタズラを繰り返したり、癇癪を起こして戸を壊れる程叩いたりした。当然、祖母はその南吉の心情を汲み取ってやることはできない。こうして更に二人の距離は遠ざかっていく…。
「おばあさんというのは、夫に死に別れ、息子に死に別れ、嫁に出ていかれ、そしてたった一人ぼっちで長い間をその寂寞の中に生きて来たためだろうか、私が側によっても私のひ弱な子供心をあたためてくれる柔らかい温いものをもっていなかった。」(1935.1.14)

結局南吉はわずか四ヶ月で再び父の元に戻ってしまう。父親と継母は南吉の出戻りで気まずい雰囲気になったが、継母と南吉の関係は表面上良好で、南吉の友人は志んを継母だと気づかなかったと述べている。
(戸籍上は新美家の養子のままであり、生涯南吉の姓は「新美」のままであった。)


1926年(大正十五年) 「たんぽぽのいく日踏まれて今日の花

半田第二尋常小学校卒業。小学校では郡知事賞を二度受賞する等、優秀な成績を残し、卒業式では生徒代表の答辞をしている。そこで上記の句を述べ、教師達を驚かせている。

通常であればここから家業の手伝いでもするところなのだが、小学校時代の担任の先生の口ぞえもあり、南吉は父を説き伏せ半田中学校に入学する。けっして裕福ではない南吉だったが、友人から本を借りては読み漁り、一層その文学への興味を深めると同時に才能を開花させはじめた。

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1929-1931
16歳〜18歳
中学校にも慣れた南吉は本格的に創作活動に入る。童話、小説、詩、童謡の多岐に渡る創作活動である。数点の作品が雑誌に入選し自信を深めていく。
「余の作品は、余の天性、性質と大きな理想を含んでいる。だからこれから多くの歴史が展開されていって、今から何百何千年後でも、若し余の作品が。認められるなら。余は、其処に再び生きることが出来る。この点に於いて、余は実に幸福と言える。」(1929.3.2)
当時16歳ながら、自らの才能に大いなる自負を持っていたことが知れる。




1929(昭和四年) 同人誌「オリオン」発行と「南吉」
9月同人誌「オリオン」発行。それまで雑誌に自分の作品が掲載されることで自信をつけていった南吉が自ら編集の作業に携わるために発行した。会のメンバーの作品を掲載しつつ五号まで発行、メンバーには最後の恋人となる中山ちゑも名を連ねている。
雑誌「愛誦」に掲載された作品「空屋」にはじめて「新美南吉」のペンネームを使用する。









1931年(昭和六年) 「赤い鳥」との出合い
後に満州事変が起こり、社会が暗い雲に覆われはじめたこの年の3月、南吉は半田中学校を卒業、教師になるべく岡崎師範学校を受験する。成績については問題は無かったが、身体検査で不合格となる。強烈な負けず嫌いの南吉はこの後、自分と同様の理由で不合格となった学友を意地悪くこきおろしたり、合格した親友を挑発したりしたかと思えば、日記でおおいに反省したりと、不安定な時期を過ごしている。文学的才能と反比例した肉体的脆弱さ、そのアンバランスさは南吉の作品に色濃く投影されていくことになる。

4月、母校半田第二尋常小学校の代用教員なる。南吉のもうひとつの天職、「先生」の第一歩だった。
大人には手厳しかったが、素朴な毎日の風景や純真な子供の心に対してはひどく寛容で優しい目をもっていたようだ。
「私の心にうれしい感激が波うって来て。私は涙を流したくなった。子供の一人一人をしっかりと抱いて。」
また、南吉が受け持ったクラスの本来の担任(出征していた)が学校に顔を出した時の生徒の嬉しそうな顔を見て、ヤキモチを焼いている日記を残しているあたりは南吉特有の嫉妬深さが出ているが、微笑ましくもある。
<恋人 木本咸子に送った代用教員時代の南吉の写真>

代用教員として教鞭をふるう一方、雑誌への投稿を続けていたが、この年から若手児童作家の登竜門ともいわれていた雑誌、「赤い鳥」に続けて投稿、童謡、童話等多くの作品が掲載されている。南吉の代表作「ごん狐」(原題『権狐』)も翌年の1月号に掲載されている。
この「赤い鳥」は当時からすでに名高い鈴木三重吉と北原白秋が主宰する雑誌で南吉も愛読していた。中学校卒業前には「中学卒業式の前の日、現在地球上にこれよりすぐれた童謡集はないと思う。」とまで記しており、そんな雑誌に掲載された喜びもひとしおであっただろう。南吉がこの雑誌への投稿でさらにその創作活動に拍車がかかったと言っても過言ではない。そして「赤い鳥」と同様、現在南吉を世に知らしめることとなった人物、同人誌「チチノキ」主宰の一人で北原白秋門下、「兄さん」と慕う巽聖歌(たつみせいか)との出合いもこの年であった。
童話か童謡か自分の進むべき道を模索していた南吉はこれ以降、白秋の影響を受け童謡の道へと進み始める。ペンネームの「新美南吉」が本格的に用いられるのもこの年以降のことである。

九月の代用教員退職後、就職浪人となっていた南吉はこの年の暮れに上京、巽の家に泊めてもらいながら、教師になるべく東京高等師範学校を受験した。「筆記用具を忘れて気がのらなかった」と相変わらずの負けず嫌いぶりが微笑ましいが結果は不合格だった。その後巽の勧めもあって、東京外国語学校を受験、こちらは見事に合格した。南吉の東京生活はこうして始まった。

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1932-1935
19歳〜23歳
1932年(昭和七年) 東京外国語学校入学
東京では白秋、巽をはじめとする文人達との交流もさかんで充実した毎日を過ごしている。創作活動もさらに大きく飛躍したのも当然のことであり、南吉の代表作はこの時期に書かれたものが多い。


1933年(昭和八年) 発表場所をなくす
4月 「赤い鳥」主宰の鈴木三重吉と北原白秋がふとしたことから衝突、白秋は「赤い鳥」から離れる事となった。白秋のグループに属していた南吉もこの事件から「赤い鳥」への投稿を取りやめざるを得ない状況になってしまう。もうひとつの同人「チチノキ」は前年に事実上の廃刊状態となってしまっていたため、南吉は自分の作品の発表場所をなくしてしまう。師として尊敬する白秋であったが、この事件以降距離を置くようになり、童謡から童話への転進のきっかけとなっていった。

12月 代表作「手袋を買いに」を創作。母狐が人間を恐れるあまり、子狐一匹を街に行かせるあたりは物議をかもしだしたようだが、大人の矛盾や現実の表現という意見もある。


1934年(昭和九年) 喀血
2月 前年末に血尿の症状が出ていたが、この月ついに喀血してしまう。幸い症状はそんなに重くなかったようだが、精神的なショックはかなり大きかったようで、自宅に戻って静養する。しかし医者にかかることもなく、自宅で静養していただけで、体調回復後には東京に戻っている。
この年あたりから主に童謡から童話(小説)の創作が多くなる。
「死ぬのは嫌だ。生きていたい。本が読みたい。創作がしたい。」(1933.12.6)


1935年(昭和十年) デンデンムシノカナシミ
「赤い鳥」から離れ、発表の場を無くしていたが、もう一つの同人誌「チチノキ」が復活する。再度世に作品を送り込む窓口が開かれた南吉は童話をハイペースで創作、数十編の作品が書き上げた。また、編集にまで携わるほどの熱の入れようをみせるが、三冊目には廃刊となってしまい。再び発表の場を無くしてしまった。
落ち込んだ南吉を見た巽は彼に童話集の執筆依頼の話を紹介する。しかし、無名であるがゆえに結局計画倒れとなり、プライドを大きく傷つけられる結果となった。
また結婚の話まで出ていた最初の恋人木本咸子との別れもこの年であった。昨年の喀血以来、自分の健康に対する自信が失せてしまったのが原因と思われる。

「私は一種のひこばえの如きものかも知れない。しかも不幸なことには生活力のないひこばえが人一倍思考力を持っているのだ。」(1935.3.14)

それらの悲しみを表現したものか、この年、南吉の詩で代表作ともいえる、「デンデンムシノカナシミ」を創作。児童向けにカタカナで書かれたものだが、誰もが哀しみをしょって生きているという、児童向けとは言いがたい内容であった。自分自身の気持ちの切替の意味もあったのか、昨年から書かなくなっていた日記を約一年ぶりに復活させた。


1936年(昭和十一年) 再び喀血、帰郷
3月 東京外国語学校卒業 教師を目指していた南吉であったが、「教練」の科目の成績が著しく悪かった為、教員免許が取れなかった。東京から離れる気が全く無かった南吉はこの地で就職活動を行い、「東京土産品教会」という会社で翻訳の仕事をすることになった。
10月9日、この年の暑さがたたったのか、二回目の喀血。巽夫人の熱心な看病もあり、翌月にはなんとか起き上がれる状態となった。しかし東京で暮らしていくのは不可能となり、四年半過ごした東京を離れ、岩滑に戻ることになった。

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1937
24歳
1937年(昭和十二年) 二度目の代用教員
自宅で静養を続けた結果、体調も良くなってきたようで、再び恩師や知人を渡り歩き、なんとか教員の就職依頼を続けるが、なかなか色よい返事が無かった。

「また今日も己を探す。」(1937.2.14)

その後、一時は「自殺」さえも頭にちらついていたようだが、なんとか代用教員として河和第一尋常小学校で再び教壇に立つ事ができることとなった。その喜びを南吉は日記で
「名誉などいらない。このままこの海を見下ろす美しい小学校で教員をしていられたらとつくづく思うことがある。」(1937.5.10)
と記している。また、同じ小学校の代用教員で二人目の恋人となる山田梅子との出合いもあった。

9月 やはり教員とはいえ「代用」であり、その教員生活には期限があった。わずか四ヶ月で再び浪人となった南吉は気が進まないながらも就職活動をすすめ、この月から「杉治商会」の畜禽研究所で働き始める。その後本社勤めとなり、タイプを叩いた、翻訳をしたと、充実した内容の日記を記しているが、給料のあまりもの安さと休みの少なさから年が明けてしばらくすると退職した。また、河和第一小退職後も続いていた山田梅子との仲もギクシャクするようになり、こちらも年明けに別れてしまっている。
梅子は南吉没後に岩手県に嫁に行ったが、若くして病没した。遺品の机の中からは南吉から送られた九通の手紙が見つかった。その九通目は南吉からの絶縁状である。

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1938-1940
25歳-27歳
1938年(昭和十三年) 安城高等女学校教諭心得
年が明け、杉治商会を退職、山田梅子との関係もほぼ消滅状態にあった南吉はこの時期、日記を記していない。将来に対してなんの希望も見出す事が出来ず、ただひがな毎日を過ごしていたようだ。
そんな南吉に転機がやってくる。中学校時代の恩師佐治克巳が校長を務める安城高等女学校への突然の採用であった。南吉は突然の吉報に踊りあがるように喜んだが、両親の喜びもまたひとしおで、
「父が、小心の父があまりの喜びで狂いださねばいいとそんな心配をした。」
母は「もう明日死んでもええ」
と、ある意味本人以上の狂喜ぶりを見せている。

4月、南吉は正式な教員として安城高等女学校に奉職、同時に一年生56人の担任となり、同時に全学年の英語を受け持つ事になった。
決して、笑顔が多い教師ではなかったようだが、作文や日記を通じて、生徒の家族関係や悩みをしっかりと把握しており、生徒から信頼される教員であった。


1939年(昭和十四年) 南吉の黄金時代Ⅰ
念願の教師の職についた上、新しい恋人、中山ちゑとの関係も発展していた、この年の正月、南吉は幸福の絶頂にいた。

「新しい年があけた。私はもう二十七歳だ。二十七歳という自分のとしに驚いてしまう。
 二十六歳の一年間は私の生涯で、平凡なその上で最も記念しなきゃならない年だった。
 〜中略〜
 そして今年がやってきた。私にはいい予感がある。明るく無事にすぎてゆくような気がする。
 そうあってほしいと思う。」

この時期彼が記した日記には、東京から失意の帰郷から正式に教員になるまでの暗さはみじんもみられない。

5月 友人の紹介で満州の新聞「哈爾賓(ハルビン)日日新聞」から作品の依頼があった。これより翌年に至るまで、童話七作、詩二十三作が掲載される。この中には「花を埋める」、「久助君の話」、「最後の胡弓弾き」等、後の有名作も姿を現している。また、自分のクラスの生徒の作品も掲載するなど、生徒の文学的才能を引き出すべく教師らしい一面も見せている。
この頃は健康状態にも恵まれていたらしく、七月には生徒と富士登山、八月には教員同士での伊豆旅行を行っている。


1940年(昭和十五年) 童話作家新美南吉の黄金時代Ⅱ
6月 古くは南吉が中学生時代に発刊していた同人誌「オリオン」のメンバーであり、南吉の三人目の恋人であった中山ちゑが青森県で急死した。ちゑは「ごん狐」にも登場する、「中山さま」の子孫でもあり、山田梅子と破局後の空白を埋めてくれた人物であった。
一時は結婚の話も出ており、日記にも
「これからの私の半生の伴侶となるであろうちいこ(ちゑのこと)と〜」
と名が出てくる女性でだったたが、この頃には二人の間は冷めており、完全な別れも間近に迫っていた。病院に勤めていたちゑは北海道に出かけた帰り、青森の元患者の家に寄り、そこで急死した。病死と新聞には掲載されたが、自殺であった可能性も高い。事実、岩滑では自殺と伝えられている。南吉はその葬儀で号泣し、それ以後しばらくの間、日記も書かれていない。冷却してしまった恋人とは言え、かなりのショックであったようだ。

しかし創作活動では活発であった年で、前年の哈爾賓日日新聞の掲載の他にも、この年の12月には巽聖歌が発刊した「新児童文化」に「川」<B>が掲載される。この頃には童話作家として名を広めつつあった。
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1941-1943
28歳-29歳
1941年(昭和十六年) 「良寛物語 手毬と鉢の子」出版
10月 学習社から初の単行本、「良寛物語 手毬と鉢の子」を出版。
出版元の学習社編集者が作家豊島与志雄に新人の相談をした際、その場に居合わせた澄川稔(東京時代の友人)が豊島に南吉を推挙した。その「赤い鳥」での幾度に渡る実績を聞いた豊島は、南吉の実力を確信、そのまま学習社に推したため、単行本として出版されることになった。初版1万部と、当時の新人作家としては破格の部数が出版されている。

11月 早稲田大学新聞に「童話に於ける物語性の喪失」を投稿。
生徒の兄が通っているという縁で早稲田大学新聞への寄稿を依頼された南吉は「童話に於ける物語性の喪失」を投稿、この中で南吉は、童話というものがどうあるべきかを堂々と述べ、同時に自分の作品に対する自負を見せている。
「私には紙の童話も口の童話も同じジャンルだと思われる。紙で読んで面白くない童話は口から聞かされても面白くない。口から聞かされてつまらない童話は紙で読んでもつまらなくない筈がない…」


12月 血尿の症状が出る。
「もうこれはてっきり悪化したのだと思った。すぐ死を観念した。」


1942年(昭和十七年) 後期代表作の創作と病状の悪化
年を越えて病状は更に悪化していったが、巽聖歌、与田準一から童話集の出版依頼があり、後期名作群を創作している。
3月 「ごんごろ鐘」、「貧乏な少年の話」
4月 「おじいさんのランプ」
5月 「牛をつないだ椿の木」、「草」、「百姓の足、坊さんの足」、「花のき村と盗人たち」、「和太郎さんと牛」、「鳥右ヱ門諸国をめぐる」等である。
死を一年後に迎えた南吉ではあったが、この時期、奇跡ともいうべき創作活動を見せた。

8月 病状が小康状態となったため、前年学習社から依頼されていた長編伝記「都築弥厚伝」の執筆をするべく、長野に旅行へ出かけている。前年依頼があったときには創作意欲もわき、取材にも力をいれていたようだが、年末の病状悪化で執筆をあきらめていた作品でもあった。
「すぐ死を観念した。もう「都築弥厚」の仕事もすてることにした」(1941.12.23)

都築は南吉が教師として勤めている安城に明治用水を引くべく奔走した人物であり、結局都築の生前に用水が完成することはなかったが、その仕事は引き継がれ、死後50年を経て完成の運びとなった。用水を完成させることなく死を迎えた都築を、死を観念しつつ創作活動を続ける自分とだぶらせていたのだろう。
「『私は死ぬ。けれど私の仕事は死なない。私が死んだあと、一時私の仕事も立ち消えになったように見えるかも知れない。しかし決して消えてしまいはしない〜(略)』弥厚の死ぬ前の言葉として」

夏休みに長野で一月ほど湯治を行いながら執筆する予定であったが、結局思うような宿が取れずに半田に戻っている。その後の病状悪化もあり、執筆は完全にあきらめざるをえなくなってしまった。創作意欲も薄れてしまい、作品どころか日記も書かれなくなってしまう。

10月 初の童話集「おじいさんのランプ」出版。
12月 北原白秋死去。巽から白秋死去の電報を受け取ったが、南吉は何の反応も見せていない。体調が思わしくないということもあったろうが、「赤い鳥」からの決別以来の溝は、その師の死においても埋まる事はなかった。その後、巽、与田連名の追悼詩集執筆依頼にはさすがに無視することもできず、二編を送っている。


1943年(昭和十八年) その最期
2月 安城高等女学校退職。前年末から学校を長期欠勤していたが、病状が進み回復が見込めなくなったこの月の10日付で学校を退職している。その後も離れと母親の下駄屋で静養を続けていたが、執筆活動は続けていた。この年に入ってからでも「狐」、「小さい太郎の悲しみ」、「疣」と、次々脱稿していたが、最期の「天狗」は書き上げる事ができず、遺稿となってしまった。

「生前(というのはまだちょっと早すぎますが)には実にいろいろ御恩をうけました。何等お報いすることのなかったのが残念です。」(1943.2.12 巽への手紙)

2月14日 父親に遺言書を書く。(実際は縦書き) この遺言書は南吉十七回忌にあたって、半田市の墓地に新しい南吉の墓が出来た際、法要後に実父多蔵が取り出したものである。既に二度目の妻志ん、三男益吉も世を去ってしまったいた。住んでいた家も人手に渡ってしまい、孤独の淵に立っていた多蔵もこの法要の二ヶ月後に亡くなっている。

「遺言状
一、愛知県安城高等女学校を退職するにつき授与さるべき退職金(一時恩給)
一、余が一切の貯金
一、余の著書の印税のすべて
一、余が蔵書並びにその他所持品一切
右の一切はあげて余が実父多蔵の有に帰すべきものとす。以って余が生前に実父よりうけたる大恩の一部に報ぜんとするなり。
右遺言す。


「たとえ僕の肉体がほろびても君達少数の人が(いくら少数にしろ)僕のことをながく覚えていて美しいものを愛する心を育てて行ってくれるなら、僕は君達のその心にいつまでも生きているのです。」(1943.2.9 卒業生への手紙)

「私は池に向かって小石を投げた。水の波紋が大きく広がったのを見てから死にたかったのに、それを見届けずに死ぬのがとても残念だ。自分の寿命が短くて…波紋が小さすぎるのが残念だ。くやしい…。」(南吉を我が子のように可愛がった恩師の妻、伊藤照に残した言葉であり、最期の言葉でもある)

3月22日 永眠。午前8時15分、死因は喉頭結核。葬儀は学校行事が多忙であったこと、伝染病である結核が死因であったことなどから、およそ一ヶ月後の4月18日に行われた。葬儀には担任を受け持った安城女学校の卒業生、巽聖歌、与田準一も出席。法名は「釈文成」、現在は半田市の共同墓地である北谷墓地に葬られている。


  父 多蔵による南吉の死亡通知            南吉の墓

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