長浜大橋 その2

穴の直径は親指くらい。
この弾痕は外側の鉄骨をかすって内側を貫通している。


日頃の行いが悪いのか、「だんこん」と入力すると「弾痕」と出ずに「男根」が出て困る。

指が邪魔ですか、そうですか。

鉄骨の厚さは1cmくらいだろうか。そんな威力で人の腹にでも当たれば派手に大穴があくことだろう。

南側の鉄骨に残る弾痕。鉄骨二枚を貫通しているのだが、その高さの違いを見る限り高い位置から機首を下げて撃ったものらしい。

こうした痕が橋のあちこちで見られる。
いくら鉄骨に穴を開けることができるにしても橋を落とすことは不可能。敵の本土にやってきて、帰りにこんな遊び半分なことができるのだから米軍もかなり余裕だったのだろう。

こちらは完全貫通。
マフ巻さん曰く「腕がいい」とのこと。

上の弾痕の引き写真。
かなり水平な状態で撃ったようだ。

橋が架かる肱川北岸にある長浜中学校。
現在は大半が埋め立てられているが、昔は江湖という川港があり、坂本龍馬も脱藩の際にこの江湖及び長浜港を利用している。


説明板もあった。
龍馬の写真と古そうな手紙の写真のセット、一見龍馬が書いた手紙のように見えるが実は違って龍馬と同時期に脱藩した吉村虎太郎のもの。
正直「維新の港」というのは大げさだがここ以外では黙っておく。

説明板の手紙部分拡大。手紙書いた本人なのに龍馬よりだいぶ小さい写真。

ちなみにこの吉村虎太郎、この手紙を書いた翌年(1863年)、自ら組織した天誅組による乱が幕府軍に鎮圧された際に戦死した。

行ってないが、龍馬や虎太郎が宿泊した家の跡に碑が建てられている。

中学校北東の船溜まりにはボートが十数隻係留されていた。
かなり埋め立てられてしまっているとのことだが何となく雰囲気は残っている。

足元を見ると、地面に残る船を係留する金具跡。

「龍馬脱藩の港 江湖」の柱の横には脱藩と同じ文久二年に奉納された石塔が残っている。
側面には願主平野屋興兵衛の名、マフ巻きさんによると訳の分からん宗教にのめり込んで作ったものらしい。

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