最初のプロ野球 〜鳴海球場跡〜 その1
(名古屋市緑区鳴海町文木90  2008/4)

嗜好の分散化などにより、昔ほどの人気はなくなってしまったが、依然高い人気を持ち続けるプロ野球。日本で初めてその試合が行われたのが今回レポートする鳴海球場である。
昭和2年(1927年)、当時はプロ野球というものは存在しておらず、野球といえば大学、中学(現 高校)野球であった。愛知県内で路線の拡張をすすめていた愛知電気鉄道(現 名古屋鉄道)は沿線開発の一環として、この人気の高い野球に目をつけ、知多郡鳴海町(現 名古屋市緑区)に総工費36万円をかけて新たな球場を建設した。当初は「愛電球場」と名付けられたが、後に「鳴海球場」となった。


東京六大学野球が行われていた神宮球場、日本初の本格野球場であった甲子園に匹敵する球場として、昭和2年10月17日開場、中堅約132m、両翼106mと現代の球場すら凌ぐ広さを誇り、メインスタンドには鉄傘がかけられ、甲子園の「アルプススタンド」に対抗して「伊吹スタンド」という内野スタンドが設けられた。収容人数は開場当時約20,000人、プロ野球が生まれた翌年(昭和12年)にはスタンドの改修が行われて約6,000人増、戦後の改修で約40,000人の収容が可能となった。


昭和6年(1931年)、同9年(1934年)とアメリカから全米選抜チームが訪れ日本各地の球場で対戦、この球場でも試合を行っている。昭和6年は六大学の選手が出場したが、9年は対米感情の悪化と学生野球統制令によって六大学の出場は実現せず、急遽日本選抜の名の元、大学OBをはじめとするかき集めチームが出場した。しかし結果的にこのチームが後の日本初のプロ球団「大日本東京野球倶楽部」となったのは歴史の面白さであろう。アメリカからはルー・ゲーリックやベーブルース等、後々まで記憶・記録に残る選手が多く参加している。そして1−0で敗れはしたが、沢村栄治が名だたる大リーガーを相手に好投し、一躍名を挙げたのはこの日米野球であった。


そして、昭和11年(1936年)日本で初めてのプロ野球の試合がここ鳴海球場で行われた。2月9日から名古屋金鯱(きんこ)軍vs東京巨人軍の三試合が行われ、初戦こそ地元の金鯱軍が10-3で勝利したものの、残りの二戦は8-3・4-2と巨人に敗れている。巨人軍はご存じの巨人軍だが、金鯱軍というのは余程のプロ野球マニアでないと知っている人は少ない。この金鯱軍は名古屋を本拠地としていたプロ野球チームで、昭和11年に結成、昭和16年(1941年)には他チームに吸収合併された短命のチームである。合併先のチームも後に解散してしまっており、現在の中日ドラゴンズとは無関係。鳴海球場はこの金鯱軍の本拠地球場として合併まで使用された。


戦争が激しくなるとプロ野球は活動を停止、プロ・アマ問わず、多くの野球選手が戦場に消えた。鳴海球場もメインスタンドの鉄傘が金属供出で取り払われ、グラウンドは高射砲の弾薬置場とされた。


戦後しばらくは、占領統治したアメリカ軍のレクレーション施設として使用されていたが、プロ野球の活動が再開されると、金鯱軍と同じく名古屋を地元とする中日ドラゴンズの本拠地球場となった。しかし、昭和23年(1948年)12月に中日スタヂアム(現 ナゴヤ球場)が突貫工事の上完成すると、そちらが中日の本拠地となり、鳴海球場は再び主のいない球場となってしまった。


昭和25年(1950年)、甲子園に続いてラッキーゾーン設置。翌年名古屋鉄道(旧 愛知電気鉄道)が中日ドラゴンズの資本に参加すると、名鉄直営である鳴海球場では開催試合増加が見込まれ、スタンドをはじめとする改修が行われた。しかし交通の便の悪さなどもあってか、期待したほど多くの試合は行われなかった。同年8月、木造の中日スタヂアムで煙草の不始末が原因とみられる火災が発生、全焼してしまった。開催予定だった試合は他の球場に振り分けられ、鳴海球場でも数試合が行われた。しかし所詮代替であり、翌年中日スタヂアムが鉄筋で再建されると、再び試合数は激減した。

昭和28年(1953年)名鉄が中日の経営から撤退すると、鳴海球場でプロ野球の試合が行われることはなくなった。もともと良好とはいえなかった経営は更に厳しくなっていく。名鉄はモータリゼーションの発展と共に免許取得人口の増加を見込み、球場経営の撤退と自動車学校経営着手を決定、昭和33年(1958年)に鳴海球場は50余年の歴史にピリオドを打つ。


翌年スタンドの一部を取り払い、グラウンドに教習コースを作って「名鉄自動車学校」として再スタートを切った。当初は残されていたメインスタンドも後に撤去されたが、現在でも敷地の形状や一、三塁側スタンドの一部に当時の痕跡を見ることができる。


平成19年の改修時に鳴海球場誕生80年を記念して、コース内に金色のホームプレートが設置された。

協力:名鉄自動車学校様 ホームページに鳴海球場の説明あり

空中写真

昭和21年(1946年)の航空写真。
プロ野球が再開された年、ただし米軍兵が主に使用していたとのこと。

昭和24年(1949年)の航空写真。
翌年ラッキーゾーンが設けられ、翌々年に観客数増加の改修工事が行われる。
21年と比較して内野の土の入れ方が使用されているグラウンドっぽくなっている。

昭和38年(1963年)の航空写真。
閉場から5年を経ているがメインスタンドは撤去されていない。
ただしコースを確保するため、各スタンドグラウンド側部分(特に三塁側)が解体されている。

昭和52年(1977年)の航空写真。
メインスタンド、及び一塁ホーム側のスタンドが解体されている。


カーソルを合わせると昭和21年のものと切り替わります。ただし若干ズレあり。


大きな地図で見る
Google航空写真。
平成19年に大規模な改修が行われたが、全体の形状やスタンドに大きく手が加えられることは避けられた。

当時の写真

開場当時の絵ハガキ。
当時は何かできるとすぐ絵葉書にしていたので、意外と写真が残っている。


外野側からホーム方面を臨んだものだが、後に拡張されるスタンドは当然まだない。


「緑区史

球場外側の丘から撮影された写真。
こちらもスタンド改修前。広大なグラウンドぶりが見て取れる。


「愛知100年写真集」 中日新聞社

昭和6年の日米野球入場券。
主催の新愛知新聞社は現在の中日新聞の前身。


「愛知100年写真集」 中日新聞社

鳴海球場で撮影された、開設当時の名古屋軍(後の中日ドラゴンズ)。


「愛知100年写真集」 中日新聞社

昭和12年(1937年)愛知県中等学校野球大会の様子。


「緑区史」

観客が外野までぎっしり詰まった最盛期の鳴海球場。写真中央やや右がホームベース部分であり、かなりファールゾーンが大きな球場であることが分かる。


「緑区史」

外野側の丘から無料観戦する人々。


「緑区史」

現在の様子

鳴海球場誕生80年を記念して、平成19年に設置された記念ホームプレート。若干の説明板も用意されている。


コース内なので、自動車学校の職員の方に案内してもらい撮影。

Google航空写真から切り取った記念ホームプレート部分。当時のホームベース付近とのことであるが、航空写真で見る限り、もう少し南東側だったと推測される。

結構まとまった雨が降る日だったが、金色ホームベースは貧乏人の自分には眩しい。


この数日前に元巨人の宮本が「ズームイン サタデー」の収録に訪れたとのこと。撮影した翌日、テレビを見たら放映されていた。


説明板。
知る人は知る、国内で最初にプロ野球が行われた球場。
こうして紹介されると華々しい歴史を持つ球場であるが、当時は本拠地で試合を行うという概念があまりなかったことや、地理的に不便だったということもあり、この球場で行われたプロ野球の試合はそれほど多くなかったようだ。

ホーム跡後方の駐車場二階から撮影した、三塁側スタンド方面遠景。

上記同地点からセンター方面を撮影。

上記同地点から一塁側スタンド方面遠景。

一塁側スタンド望遠。
こちらは昭和12年改修時に追加されたスタンド。


一階は待合室や職員控室、警備事務所等として用いられている。
最近の待合室には女性専用というのもあるらしい。

三塁ホーム側スタンド。
これが「伊吹スタンド」と名付けられたスタンドの跡。
恐らくもう少し前の部分までスタンドはあったと思われる。となると、現在一階部分はスタンド内通路跡ということになるが、確証を得た話ではない。

こちらも改修時に追加された三塁外野側スタンド。
一階は車庫として用いられている。更に奥に見える建物は当時のものではないらしいとのこと。

一塁側スタンドの一階部分。
通路の屋根を支える鉄骨は後付けと思われる。

マイナーヒストリートップ次頁
観光トップ