大阪城近辺戦争遺跡 その1

GoldenFieldさんからお寄せいただいた写真とコメントに、はっとし_ぜろがコメントを追記した形でリポートしています。

大阪城天守閣。
1626年徳川期に再建された大阪城天守は1665年に落雷焼失、以後再建されず約270年を経た昭和6年に再建された。

大阪城ホール近くに残る砲兵工廠の碑。
明治3年に設置された「造兵司」がその最初、後に「大阪陸軍造兵廠」と改称し終戦まで武器を造り続けた。
数度の空襲を受けつつも、致命的損害を受けることなく操業しつづけた。しかし終戦直前(8月14日)の空襲によりついに壊滅的打撃を受ける。

多分なにかの遺構。倉庫?

別の角度から。

旧大阪陸軍造兵廠化学分析所跡。
なにやら荒れている。

別角度から。残念ながら入場不可。

銃眼って呼ぶんでしょうか?

若干石垣がずれているらしいが素人目には分かりませんでした。

石垣に残る機銃掃射跡。

昭和6年建造の旧陸軍第四師団司令部。
明治4年大阪鎮台が設けられ、後の明治21年第四師団の改称。


維新直後政府の幹部(兵部省/兵部大輔)となった長州出身大村益次郎は大阪を軍の要とする旨意見を行っている。ただしこれはいずれ政府に反抗するであろうと見た薩摩藩(実際に西南戦争を起こすのだが)に対するものが大きい。

展示されていたパネルに往時の姿を見ることができる。

刻印石広場。

刻印石。
刻印の刻まれた巨石がごろごろ転がっている。

大阪城内山里曲輪に残る豊臣秀頼自刃跡に残る碑。
1615年大阪夏の陣において大阪城は落城、山里曲輪に隠れて助命を嘆願していた秀頼だったが、家康からの返答は蔵への一斉射撃であった。ことここに破れ秀頼・淀殿は自刃して豊臣家は滅亡した。


この地で発見された頭蓋骨の一つが秀頼のものと見られている。細い面長の「瓜実顔」だったとされる。

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