陸軍清洲飛行場 その1
(甚目寺町大字石作字北浦  2009/6)

昭和19年10月、内務省からの作業を引き継ぎ、第百五十野戦飛行場設定隊により建造された飛行場。完成後は飛行第五戦隊が名古屋北部の防空任務を担った。
ほぼ同時期に建設された小牧飛行場は戦後米軍に接収された後に名古屋空港(現:名古屋飛行場)となったが、清洲飛行場は建造物の大半は解体されて滑走路も耕地や住宅になってしまっている。唯一現存する遺構は今回紹介する作戦室跡のみとなってしまったが、条件さえ整っていれば、この清洲飛行場が「名古屋空港」になっていたかもしれない。



1949(昭和24年)の航空写真。
滑走路や誘導路などが残っている。
敷地は南北2km、東西9kmと広大。現在滑走路部分の大半は耕地や住宅となっており、遺構はほとんど残されていない。

そんな中、一部破損しながらもしっかり残っているのがこの作戦室。
かなり頑丈に造られているので解体もままならず、畑の中にぽつんと残っている。

東側部分から撮影。
手前に出入口があるが、かなり埋まってしまっており、入ることはできない。

半地下式の東側出入口部分。
必殺スコップアタックを繰り出して潜入しようかとも思ったが、周辺には住宅も多くさすがに無理。
出入口の上部分はかなりコンクリートが破損しており、鉄骨がむき出し。

出入口部分にカメラを突っ込んで撮影。
本来は建物中央部分に繋がっていたが、現在天井が崩壊しているため光が入ってきている。

作戦室中央近くから東側出入口につながる通路天井部分を撮影。

展望台隣の樹木。
これだけ茂っていると下に何があるのか分からないが、これだけの木が育っているので地面なのだろう。

天井が落ちている展望台西側の中央部分。
この時期でなければもう少し中の様子も分かるのだろうが、現在は雑草が茂ってご覧の状態。

西側部分から天井崩壊部分撮影。
右側の方形が展望台、左手奥が東側出入口。
左隅部分が東側出入口通路の出口だが、雑草が茂ってよく分からない。

南側から崩壊部分、展望台を撮影。
右手展望台奥が東側出入口。

展望台から崩壊部分撮影。
かなり土砂で埋まってしまっているが、往時はそこそこの高さがあったのだろう。

通気口or伝声管の断面が見える。
屋根部分がかなり風化してしまっているが、天井部分の厚さはかなりのもの。

土管で作られたような通気口か伝声管?

こちらは直接口を開いた通気口。

2m弱四方の展望台部分。
現在は埋まってしまっているのでそれほど展望台という感じはしない。

展望台から室内へ入るための出入口。
このままだと雨が入りこんでしまうので戸があったのかとも思うが、蝶番の跡らしきものは見られない。

展望台直下の部屋。奥の通路から室内へ入ることができる。現在は入っても天井崩壊部分に繋がっているだけ。

トーチカ状に入口が狭まっている南西側の出入口。

ほとんど埋まってしまっている上、奥まっているのでカメラが突っ込めなかった。

コンクリートには鉄骨の他、玉石が多く入っている。玉石の含有が多いと非常に解体しにくくなり、それが遺構の残存に繋がっていると思われる。

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