中川運河松重閘門
(名古屋市中川区)

名古屋市はもともと台地の上に築かれた街であったため、市の中心部にこれといった川がなかった。そのため石垣等の築城資材運搬の為、江戸時代初期、福島正信によって堀川運河が掘られた。後に運河として改修された新堀川と共に明治末期までに名古屋の貨物運搬の主力となったが、名古屋の工業化発展の為にはこの二本の運河だけでは不十分であった。そのため、堀川の西側に名古屋港と後に開業する貨物ターミナル駅である笹島駅を結ぶ中川運河が掘られた。


運河間では連絡のため支線が掘られたが、庄内川の水が流れ込む堀川は中川運河より水位が1mほど高くなっていた。この水位差を調整するため築かれたのが松重閘門である。完成は中川運河の完成と同じ(当然ではあるが)昭和5年である。
水門は二つあり、水門の間に船が入ると開けていた水門を閉じ、暗渠に水を通して水位を揃えた後に反対側の水門を開け、約20分で運河間の連絡を行っていた。


こうして運河による貨物運搬は名古屋の発展に大きく寄与したが、戦後トラックによる貨物輸送が主となると次第に廃れていき、昭和43年を最後に水門が開かれることはなくなった。一時は解体される予定であったが、住民運動により産業遺産として残されることとなった。周辺地帯は公園として整備され、夜にはライトアップも行われている。
現在耐震工事の最中であり、名古屋の発展に尽力した老兵は今後もその発展を見届け続ける。


現在(H20年)中川運河側の閘門は耐震工事がおこなわれており見ることはできない。写真は全て堀川側のもの。

中川運河側、堀川側それぞれに水門があり、その間には長さ約90mの水路となっている。


水門の間には現在江川線という大きな通りが通っており、歩道からではこの堀川側の閘門全体を撮影するのは難しい。また道路上には都市高速が通っているので、道路反対側の歩道からの撮影も事実上不可能。

水門脇の塔。
中には水門を上下させる錘とモーターが格納されている。
もちろん中には入れない。

南側の塔。
塔の上部は往時は展望台になっていたという。高さは21mで、隣を走る都市高速の上に頭を出す。

赤信号のタイミングを見計らって、車道から撮影。ヨーロッパ的な外貌からか、ギロチンをイメージさせる。

避雷針のついた塔頂点部分。
もちろん和風な感じではないが、かといって洋風とも言い切れない和様折衷な雰囲気が残る塔だ。

閉じられて40年以上を経た水門は、現在コンクリートで固められている。


奥に見えるのが堀川。
昭和中期から末期にかけて、これら運河の水質汚染が進み、周辺地域に悪臭とダーティーなイメージをふりまいた。
手前側は水路跡。現在水が全く通らないのでただ雑草がはびこるだけになっている。

水門をつなぐ太いチェーンと水門のレール。
塔の麓にはゴミ捨てと小屋掛け禁止の看板がある。また、現在耐震工事が行われている中川運河側には公園もあるが、そちらにもかなり浮浪者がいたようだ。

塔の麓部分。
よく意味が分からない花壇らしきものあり。

水門をつなぐチェーンが滑車により、塔内へと導かれている。
中学校時代に習った滑車の理論に出てくる図を思い出した。

堀川側から撮影。
都市高速ができる前は中川運河側と合わせて4本の塔が林立する姿が見られたが、現在は都市高速をサンドイッチする状態となっており、4本を同時に見ることはできない。

更に引いて撮影。
昭和中期から末期にみられる日本の無秩序な合理主義はこうした古き良き時代の景観を簡単に潰してしまう。
あまり外国を賛美することはしたくないのだが、ヨーロッパあたりであれば、こうした点にも、多少の配慮をするのだろう。
デザイン都市宣言を行っている名古屋としては少々恥ずかしいことである。

名古屋に住んでいれば、一度は目にしたことがあるであろう閘門。でも通り過ぎるだけで意外とじっくり見たことがない人も多いと思われる。これは産業資産としてのアピール不足と整備の仕方によるものだろう。ライトアップはされても、歩道には説明板すらなかったし、整備された公園(この日は工事中で行かなかったが)もただの広場でホームレスの寝床と化していたという。
通ってしまった都市高速は今更どうしようもないが、耐震工事まで行うのであれば、今後は産業遺産として正しいアピールとそれにふさわしい整備が行われることを期待したい。

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