城山八幡宮 被爆鳥居
(名古屋市千種区)

名古屋の高級住宅地である本山近くにある「城山八幡宮」。かつては織田信長の父、信秀築城による末盛城があった場所である。この八幡宮の第一鳥居には戦時爆撃を受けた際の傷跡が今でも残されている。
鳥居脇の標柱は更にひどい損傷を受けたため戦後に新しいものと取り換えられたが、古い標柱も境内に残されている。

八幡宮南側の第一鳥居。
一見すると普通の鳥居であるが、向かって右側の柱の部分に大きな損傷を受けている。
右側に見える標柱は更に大きな損傷を受けたため、戦後取り換えられた新しいもの。

修復された跡が残る柱。
八幡宮に伺ったところ、爆撃は昭和20年だが、何月かは不明とのこと。恐らく2月か3月の空襲ではないだろうか。


傷跡を見るとどちらから爆撃を受けたか良く分かる。

向かって左側の柱。
こちらも損傷は少ないが、爆撃の跡が残っている。

柱の根元部分の修復部分。
強度に問題がないのであれば、そのまま残しておいた方が良いような気もする。
まぁ、戦後の傷跡があちこちに残る時代では特別珍しいものでもなかったので、単純にみっともないと思って修復したんじゃないだろうか…。
最初に修復されたのがいつかは不明だけど。

こうして下から見上げると損傷の大きさが良く分かる。


どうでもいいが、城山八幡宮公式HPにある「巫女日記」、顔文字が多いのはまだいい。しかし、写真の紹介文章、「でわ本日の画像☆」…。


あえて言おう、神社公式でこれはまずいと。

本殿南西、旧ニノ丸跡に建つ「昭和塾堂」。
昭和3年、「青年教育・社会教育」の施設として県が建築したもの。
戦中は軍に接収されたが、戦後も大学施設などに転用されつつ現存している。


説明板によると昭和42年八幡宮に払い下げされているが、その後は愛知学院大学の施設となっている。この辺りの事情は良く分からないが、とりあえず敷地内は立入禁止となっており、全体の撮影もままならない。


和風なのか、洋風なのか、はたまたオリエント風なのか良く分からない様式。
イメージ的には寿司のネタがハンバーグで、わざびの代わりにドリアンが入ってるような感じだ。

本殿南の広場(旧本丸)の「十山字錨」。奥には忠魂碑。


以下説明板。
「此の錨は往時横須賀港において大型艦艇停泊時の繋留用ブイ繋止錨として使用されたものであります。
重量は四、五トン明治年間の製造と推定されます。


昭和五十五年東海海軍連合会が海上自衛隊より払下げを受け城山三十日講の手によって設置されました。


錨は平和のシンボルでもあり海洋にて戦没された軍人軍属の御霊代として建立したものであります。」

この付近は戦後大きく開発が進んだ地域であり、近くを通る広小路通にはたくさんの車が走り、おしゃれな店も並ぶ。
そんな中、この八幡宮に足を踏み入れれば、戦国時代の縄張が残り、戦時中の傷跡も残っている。何やら異空間な感じがして良かった。

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