新舞子水族館跡(東京大学農学部附属水産実験所)
(知多市)

-漁村から観光地へ- 新舞子土地
知多郡旭村下松原(現在の知多市新舞子)は古くから地引網がさかんな地域で時々鯨などが迷い混む遠浅の海岸であった。明治になって海水浴がレジャーとして流行すると、名古屋からほどよい距離にあって遠浅のこの海岸には多数の海水浴客が訪れるようになった。
明治後年この地方への鉄道敷設が計画されると観光客の増加を見込んだ有志らはここに一大観光拠点を設けるべく活動を開始した。
まず、老松そびえるこの海岸の景色が瀬戸内海の景勝地である舞子(兵庫県神戸市)に似ているということから「新舞子」と命名した。明治43年に観光遊園地「舞子園」を建設、同45年愛知電気鉄道(現 名古屋鉄道)により伝馬(名古屋市熱田区)〜大野間に鉄道が開通すると新舞子土地株式会社を設立した。新舞子土地は御料局から7万5千余平方mの土地払い下げを受け、客室百余部屋を持つ旅館兼料理屋「舞子館」を建設した。この舞子館は蒲郡の「常盤館」、名古屋の「南陽館」と共に愛知の三大旅館と呼ばれた。
しかし大正後年になるとその経営は行き詰まり、同じく新舞子の開発に着手していた愛知電気鉄道に合併された。


-更なる発展と文化村事業への着手- 名古屋鉄道
伝馬〜大野間の鉄道を開通させた愛知電気鉄道も同様に新舞子地区を海水浴場を中心とした観光拠点とすべく無料休憩所や桟橋などを設置して積極的な開発を行った。大正末期に新舞子土地を合併すると海水浴場としてでなく、別のアングルからの開発をすすめていった。それが新舞子における文化村建設であった。大正14年、駅の北側に○棟の洋風文化住宅を建築したのを皮切りに、同年夏には駅前に動植物園を中心とした「新舞子楽園」を建設、さらにはナイター設備を備えたテニスコートまでつくられた。
大正13年頃には新舞子海岸にに安藤飛行研究所が解説され、多くの水上機パイロットを輩出すると共に、遊覧飛行や名古屋-和歌山(後に名古屋−二見浦−蒲郡)の定期航路も開かれた。


-独自の水族館における研究を目指して- 〜東京帝国大学〜
昭和初期、東京帝国大学(現 東京大学) 農学部水産学科は海洋学・水産学の研究を行うため、学科独自による水族館の建設及び運営を目指していた。幸い伝手もあって、愛知県渥美の開発振興会から渥美半島に観光施設の中心として水族館を建設し、これを大学に寄付したい旨の申し入れがあった。しかし具体的な話となると、両者の意見に大きな隔たりがあって計画は停滞してしまった。


-利害の一致- 東京帝国大学・名古屋鉄道
渥美半島における計画が停止してしまい、なかなか水族館建設にこぎつけられない東京帝国大学であったが、学科の第1回卒業生飛塚高次が愛知県の水産課長に就任し、出席した会合で名古屋鉄道社長藍川清成と会ったことから水族館計画は再度動き出すことになった。飛塚は藍川に一向に進まない母校の水族館計画の話をしたところ、藍川はこの水族館が新舞子の目玉施設になると考え、飛塚に対して「それ(水族館)は名鉄で引き受けましょうか」かと持ちかけた。


-再び意見の相違(集客か研究か)- 東京帝国大学・名古屋鉄道
この藍川の一言により水族館建設計画は大きく動き出したが、あくまでも集客施設とし水族館を建設したい名鉄側と、実験・研究施設としての水族館を要望する大学側(これらの施設がないと寄付受入れの名目が立たない)で意見の相違があった。更に名鉄による水族館建設計画を聞きつけた渥美側からは「先に話を出したのはこちら」と三つ巴の状態となってしまった。
結局紆余曲折を経て、水族館(研究棟も付属)は名鉄により新舞子に建設、渥美半島からは村と養魚会社が寄付した土地に研究棟を建設した上であらためて寄付するということになった。


-水族館開館-
昭和11年8月、新舞子駅の西側に東洋一の水族館として開館した。
東京帝国大学の水産実験所研究施設の一部であるとともに海の生産や水産についての社会教育施設として一般に公開された。一般公開は5月から11月までの期間であったが、年平均10万人の見学客が訪れ、概ね盛況であった。


-水族館概要-

存続期間 昭和11年7月〜昭和45年4月

公開期間 毎年5月〜11月一般公開

観 覧 料 大人15銭・子供7銭(開館時)。名鉄の切符とセット販売もあり。
入場料収入は大方実験所の運営費として使用され、維持管理費は名鉄が供出していたようである。

規 模 研究室1、事務所棟1、淡水魚槽12、海水魚槽39、卓上小水槽15、円形放魚槽1、予備飼育水槽8など。
地下の海水貯水槽に海水を年に1度汲み入れ、以後濾過循環して使用。

飼育・研究生物 地元沿岸に住む動物や外洋性の動物、及び中部地方に生息する淡水魚。種類は年や季節によって変動するが常時飼育されていたのは約150種類。
飼育されていた魚の中には前年(昭和10年)に閉館した名古屋港教育水族館(名古屋港)から寄付されたものも含まれている。



-終焉-
昭和45年、施設の老朽化及び海岸の埋立・工場化による海水の汚染が進んだため、渥美半島にあった水産実験所と共に静岡県浜名郡舞阪町(現 浜松市西区)に移転。戦争を挟み30有余年に渡って運営されてきた新舞子水族館は閉館となった。


新舞子水族館閉館後10年を経た昭和55年、同じ知多半島の南知多町に「南知多ビーチランド」が開園、さらに平成4年名古屋市港区に名古屋港水族館が開館した。


資料提供:[東京大学大学院農学生命科学研究科] →Web

北北東側から撮影された写真。
手前の池の部分にモニュメントとも思えるものも写っている。
ネタ元をいただいた方から「屋外にクジラの骨格標本が展示されていた記憶がある」と追加情報をいただいたが、資料で見つけることはできなかった。
ただこの時期、伊勢湾にクジラが打ち上げられることも度々あったようなので、それを骨格標本として展示した可能性はかなり高いと思われる。


残念ながら池のモニュメントらしき物体は骨格標本ではなさそうだ。
(東京大学大学院農学生命科学研究科附属水産実験所からの資料)

別角度から撮影された写真。建物の屋根部分に施設名らしき文字が見える。
左上の写真は正門。


昭和28年に名鉄が発行した水族館冊子に掲載されていた館内図。左上が正門。


大きな地図で見る
現在の水族館跡周辺地図。
地図左上の「ファインブリッジ東」交差点の南東部分に新舞子水族館は建てられていた。
現在は結婚式場となっている。

放魚池。
海水魚や海亀が飼育されており、海亀とは握手することもできた。

中学校の遠足にて。
海水魚観覧室と思われる。順番待ちなのかさぼっているのか、中央のベンチで休む少年が多いのが妙に気になる。

通路部分にベンチが置かれていないため、開館時のものと思われる写真。
最近の水族館のような大型水槽ではないが、地方の水族館では今でも見られる展示方法。そもそも研究が目的であるため展示方法云々をいうのはナンセンスではあるが。
(東京大学大学院農学生命科学研究科附属水産実験所からの資料)

新舞子水族館が紹介されている当時の絵葉書。
当時から観光名所を紹介する絵葉書は多かったが、写真だけでなくイメージイラスト(?)が描かれたものはあまり見たことがない。
(4枚とも東京大学大学院農学生命科学研究科所蔵)
 
左写真:正門  右写真:海水魚観覧室
 
左写真:水槽/入口(?)  右写真:水槽/研究棟(?)

鉄道が通ったばかりの頃(明治期)新舞子駅。現在と似ても似つかない風景であるが、それでも何となく雰囲気は残っている。

改築された新舞子駅。
観光拠点の駅としてモダンな駅舎が建てられ、周辺は文化村として整備されていた。

駅近くにつくられた小型動植物園。どんな動物が飼育されていたか等調べたが、資料見つからず。
現在全く痕跡は残っていない。


舞子館の写真は見つけられず…。

現在の姿

ファインブリッジ東交差点の南東方向を撮影。
この辺りが正門だった場所だと思われる。写真右側は伊勢湾。

同地点から南東方向(駅方面)を撮影。
都市化した現在、瀬戸内海の名勝「舞子」に似ていると名付けられた頃の姿はほとんど残っていない。

同地点から西方向を撮影。
現在はファインブリッジという橋が架かり、新舞子マリンパークという人工島に繋がっている。

正門跡から東側に移動し、正門方向を撮影。左手が旧水族館となる。

現在は結婚式場になっている水族館跡を北側から撮影。

交差点から南側、海岸沿いに歩く。
左手に見えるのが水族館跡の西側。

同地点からファインブリッジ、及び新舞子マリンパーク方面を撮影。


内海などと比較して名古屋から訪れやすい場所ではあるが、自分の中では本格的な海水浴場というイメージはもうない。

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