花瀬望比公園
(指宿市) |
鹿児島県指宿市開聞町 |
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開聞岳の西側の花瀬海岸に比島(フィリピン)戦没者慰霊碑が建てられ、公園が整備されたのを契機に戦没者の御霊の安穏と世界平和を祈念し「花瀬公園」から改称、「花瀬望比公園」と命名。
昭和41年8月…遠く比島の地で祖国に想いを馳せながら眠る御霊を慰めようと「比島戦没者遺骨収集、慰霊碑建立期成会」が結成され、関係各方面の支援の元、無事に遺骨収集を果たして比島で御霊を慰めることができました。
昭和43年春、この花瀬海岸において、慰霊碑の除幕式と47万6千余柱の慰霊祭が執り行われました。これ以後毎年慰霊祭が行われることになりました。
写真・文章は白梅さんからの提供です |
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春靄に浮かぶ開聞岳(薩摩富士) |
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「死生の扉」
戦没者数47万6千余柱、比島作戦に果てた同胞の形骸は朽ちても全ての御霊が永遠に比島にとどまっていると思いたくありません。
異域の地で戦友に抱き起こされ、押し上げられて不死鳥の様によみがえり、1,900kmの天空を駈け戦場で見続けた祖国に帰ってくる姿を願う…。
そんな祈りを込めて造形された「死生の扉」です。
死生の扉の後ろが花瀬海岸。
比島はここから1,900km先にあります。 |
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戦友に抱き起こされ共に助け合い「死生の扉」から夢に見続けた祖国日本へ…。 |
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「碑文」
許されるものらば 還らざる旧軍四十七万六千余柱の 精霊なおもとどまる 雲咽万里比島の地に
痛恨の碑を建て その前に伏し 心からなる祈念を捧げたいものを
やむなく 日本列島最南端のここに碑を置き 想いを馳せてみたま鎮まれとひとしく願う |
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慰霊碑の碑文の上には遺骨とともに収集した鉄兜。 |
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「日本軍の機関銃」
遺骨収集の際に鉄兜とともに日本へ。 |
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「大鐘桜」・「安らぎ之鐘」
1,900kmの彼方、フィリピン群島の島々に響き渡り比島に眠る将兵の御霊を慰め、世界平和と万民 の平穏功徳を祈る望比鎮魂之鐘(平安之鐘)として建立されました。
大晦日の晩には遺族や観光客の参列のもと慰霊除夜の鐘が鳴らされます。
高さ2m39cm、直径1m15cm、重さ1950kgの大きな梵鐘です。 |
「献歌」
安らぎの鐘の音響け波越えて遠き比島の空の果てまで 望比浜磯辺に立てば鐘の音ははるか比浜の空に消えゆく
安らぎの鐘の音に和す波の音故郷恋う声か果てし戦友らの 安らぎの鐘の音聞けば帰れかし比島に眠る戦友のみ霊よ
花瀬浜寄せ来る波の背に乗りてせめてみ霊よ還れ祖国に
平成十四年三月二十七日 開聞町比島戦没者慰霊祭に参列して
元比島方面軍参謀部 金丸 利孝 |
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「想比之像」
比島に出兵した将兵の妻子は夫や父の安全と無事帰還を祈っていました。
この像はフィリピン群島に向かい祈る母子の姿を象徴した像です。 |
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「石燈籠」
遺族や参拝者の慰霊、祈りとともに年々建立されています。 |
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「殉国戦士面影の像」
作…日本芸術院会員、鹿児島大学教授、中村 晋也 氏
戦没者の鎮魂と世界民族の永久の平和を祈念し、激戦地フィリピン群島で生命をかけ戦い矢つき玉尽き、尊い生命を落とされた殉国戦士の面影を象徴したものです。 |
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−画像について−
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製作…[戦争遺跡]・[九州慰霊碑奉賛会]・[九州遺跡保存会]/白梅さん |
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