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北野廃寺跡 その1
(岡崎市 2007/9/17) |
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岡崎市北部に残る廃寺跡の遺構。この付近では一番古い寺の跡らしく、建立されたのは飛鳥時代後期(7世紀末)と伝えられる。詳細は説明板にて。
10年以上前から一度見に行かなくてはと思いつつ、ついつい後回しにしてしまっていたが、先日久しぶりに額田方面にドライブに行ったのでその帰りに訪問した。 |
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北野廃寺南側にある説明板。建立は7世紀後半頃、天武期頃と思われる。 |
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「岡崎観光文化百選 北野廃寺跡」説明板その2。
遺構から、寺は、塔、金堂、講堂、中門、南大門、僧坊が南北一直線に並ぶ、飛鳥時代後期の四天王寺式の壮大な建築であったことがわかります。礎石に残る心柱の直径などから、塔の高さ30メートルに及んだと思われる。
境内の広さは、東西126.5メートル、南北146メートルという広大なもので、寺跡は史跡公園として整備されました。 |
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北野廃寺跡の石柱が建つ南側から撮影。
現在は公園としても整備されており、小学生が多数、キャッチボールなどで遊んでいた。 |
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「中門跡」説明板より。
基壇をつくる土がほとんど削られていたため不明な点が多いが、間口約十三メートル、奥行約九・四メートルと推定される。
南側から入ってすぐのところにある中門跡。夏も終わり、クマゼミがたくさん死んでいた。公園にやってきた小学生がその死骸を蹴飛ばしまくるので、死体嫌いの自分は非常に困った。 |
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「塔跡」
心柱の礎石は地下に据えられており、径二・五メートルの扁平な巨石で円形の柱座には細い排水溝が刻まれている。基壇は、一辺一〇・六メートルで周辺の石材は抜き取られていたが心礎の柱座径から高さ三三メートル前後の塔が推定される。
基壇とは写真で見えている、盛土部分のこと。現在のものはある程度復元されたもののようだ。 |
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塔跡基壇に上がって撮影。説明板にある柱座が見える。直系は2.5mとあるが、砂利がひいてあるため、中央部分の直径1m分くらいしか見られない。これでも一応砂利をどかして撮影した。 |
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角度を変えて撮影。 |
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説明板にある柱座の排水溝。
これも見やすいように足で砂利をどかした。 |
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「金堂跡」説明板より。
周囲より一メートル程高く、間口一四・九メートル、奥行一二・四メートルの基壇である。基壇面の礎石の配置は末(未の間違い)調査であるが、周辺の石材は全て抜き取られていた。
ここは基壇上に特に見るべきものはなかった。木に登る小学生を少し見学した。見られていることを意識した小学生はどんどん上に。
「怖い」と友達にもらしだした、小学生を傍目に次の基壇へ。
ワンパクでもいい、たくましく育て。 |
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「講堂跡」説明板より。
基壇は間口三一・四五メートル、奥行一七・五五メートル、高さ〇・三五メートルで残っていた。礎石や根石から建物は八間に四間で、間口二六・九五メートル、奥行一三・〇五メートルと推定される。
北野廃寺を紹介する本やHPによく掲載されている写真。 |
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講堂跡の奥に僧坊跡があるが、特に遺構は残されていない。
「僧坊跡」説明板より
基壇はそっくり削られていたが、北土塁と講堂跡との間に平な小高い所が残っており、この位置に僧坊が建立されていたと推定される。 |
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規則正しく並んだ礎石。
元三段跳びをやっていた自分としては、ホップステップで、あちら側まで石の上を飛んで行きたかったが、一歩目で膝が痛くなったのでやめた。 |
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礎石の大きさはこれくらい。
ちなみに足は25cmだ。 |
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「土塁跡」
土塁跡は耕作などにより大半が失われていたが、両側に雨おち溝を設けた土塁の基礎部はところどころに残っていた。その幅は約一・八メートルである。土塁上の築時塀の有無などについては不明である。
現在の北野廃寺北端。整備されているのもここまでで、ここから北側は住宅となっている。 |
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北野廃寺北西側から講堂跡方面を臨む。
子供のキャッチボールに入れてほしかったが、変質者と勘違いされると困るのでやめておいた。 |
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西側から金堂跡と塔跡の基壇を臨む。
左が金堂跡、右が基壇。金堂跡の方が基壇が少々高い。
付近には三菱の工場などはあるが、特に高い建物はない。1300年以上も前、ここに30mを越える塔と、この公園を埋め尽くすほどの建造物があったという。
時間があったので、少し座って当時を想像してみた。たまにはこうした脳味噌の使い方も悪くはないなと思う。
しかし、若い頃はすぐにイメージできたものが、30代半ばを越えた現在では座って落ち着かないとできない。その事実がひたすら寂しい蒸し暑い午後だった。 |
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「回廊跡」説明板より。
講堂基壇の東側で、三・〇五メートルの感覚で礎石一個と礎石の抜き取り跡一ヶ所とが残っていたが、基壇は破壊されていた。講堂基壇の西側も基壇の一部が残るだけであった。 |
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東側の回廊跡部分。線を引くように石が置かれているので、なんとなく往時の雰囲気を掴む事ができる。 |
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西側回廊跡の一部は寺が建てられている。 |
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西側回廊跡。
説明板によると基壇跡がかすかに残っていたらしいのだが、見つけることはできなかった。 |
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西回廊跡北端に建てられている寿松寺。 |
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