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豊橋海軍航空隊基地跡(大崎島)
(2006/6/24) |
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大型機の訓練基地として、豊橋の南方の大津島・欠島・平島付近を埋め立てて建設された八角形の人工島。1500mの滑走路3本、1000mの滑走路1本を持つ。太平洋戦争が始まる前の昭和14年に着工、昭和18年4月の完成と同時に搭乗員の練成を目的とした豊橋海軍航空隊が開隊される。翌年2月に航空隊は廃止され千歳に移転となったが、多くの隊員が特攻隊として散っていった。その後いくつかの隊が開隊された後、同年7月陸攻搭乗員練成を目的として第二次海軍航空隊が編成されるもすぐに移転。昭和20年に入ると戦況は悪化、飛行機の調達も難しくなり、ほとんど機能することなく終戦となった。
戦後払い下げとなり開墾され農地化されたが、昭和33年にトピー工業(当時は東都製鋼)が島の北東部で製鋼工場操業開始、昭和47年には更なる埋め立てが行われ原型を留めなくなった。その後工場の進出は進み、本土と島を結んだ1本の橋の跡に「海軍橋」の名前を残すのみとなっている。この橋も昭和63年に拡幅工事を受けている。 |
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豊橋市史に記載されていた基地地図とGoogleの航空写真を重ねたもの。
施設の多かった島の北半分はトピー工業の社有地となっており入ることができない。島としての面影は北東部の一部を残すのみとなっている。A地点の交差点名に「海軍橋」という名が残っているが、現在は埋め立てられているので実感として感じることは難しい。 |
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上の合成写真と同サイズの地図。
滑走路の舗装跡も残っているようなのだが夏で草木が生い茂っているのと工場の敷地が多いということで発見できなかった。 |
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豊橋市史記載の地図を書き写したもの。島の北半分は上の説明にも書いたがトピー工業の敷地となっており、入ることができないが、もしかしたら基礎くらい残っているのではないかとも思う。できれば許可を得て入ってみたいが残念ながらそんな気の強さを持ち合わせていない。 |
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A地点で南方面を向いて撮影、この交差点を右に曲がると航空隊基地跡方面。 |
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同じくA地点から西(基地方面)を撮影。サイズを小さくして見難いが、「海軍橋」の交差点名が残っている。 |
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C地点から西を向いて撮影。
道路の両脇に数少ない遺構の縁石が見られる。道路北側には当時の護岸跡も見られる。 |
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コンクリート製の縁石。道路の幅は当時と同じということが分かる。奥に見えるのがトピー工業入口。 |
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同地点で東側(海軍橋方面)を向いて撮影。道路の両脇は昭和40年代に埋め立てられた区域。 |
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B地点から橋の護岸部を撮影。写真が潰れてしまいあまりよく分からないが。 |
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同じくB地点から北西(旧大崎島の北東端部分)を向いて撮影。島の輪郭をわずかに残す部分であるが、同じ高さから撮影してもよく分からない。 |
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E地点から東を向いて撮影。旧1000m滑走路のわずかに南を走っている道路。
現在島の東西を結ぶ動脈部分となっているがスピードが出しにくいように緩いクランクとなっている。
ここから北側がトピー工業。 |
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D地点から北を向いて撮影。突き当たりの道路が上の写真で説明している東西道路。
南北方向に伸びていた1500m滑走路と北西・南東方向に伸びていた1500m滑走路がクロスする地点だと思われる。 |
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D地点から南を向いて撮影。南北方向に伸びていた1500m滑走路は幅が100m、この道路の左側に大きく開いていたと思われる。 |
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D地点から南に下がった所から北を向いて撮影。しつこく載せているが遺構が残っているわけではない。 |
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更に南下するとロータリーとなっており、車ではここまでしか南下できない。エプロン跡かと思ったが地図を見る限り違うようだ。 |
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A地点からわずかに東に行った所にある橋(現在一号橋となっている)。こちらも数少ない遺構。現在南側が拡幅されているが、北側はほぼ往時のまま。付近に車を停めるところがなかったのでちゃんと撮影できず。
付近には地下倉庫・燃料庫・通信設備跡なども残っているようなので再度訪れたい。 |
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