三菱重工知多飛行場跡

1940年、三菱の新爆撃機開発のために滑走路を備えた工場として大府町(現大府市)・上野町(現東海市)の丘陵地帯が選定された。開戦直前の1941年10月17日に起工式が行われ、地元町民や強制労働で駆り出された朝鮮人労力を用いた人海戦術で1944年4月に完成。以後終戦までにこの三菱大府製作所で586機の新爆撃機「飛龍」が組み立てられ、工場の滑走路から各部隊へ飛び立っていった。組み立てに用いる部品は近くを通る国鉄武豊線大府駅から引き込み線で運び込まれた。
敗戦で工場は閉鎖、完成済の飛龍や部品は米軍の命令で破却されたが、滑走路自体は昭和27年から中日新聞社機用滑走路として用いられた。昭和33年中日新聞社機滑走路は小牧に移り、滑走路は閉鎖された。付近は払い下げられ現在は民家や社宅などが建ち並んでいる。
滑走路跡はほぼ道路として残り、現在もわずかではあるがその面影を残している。

昭和20年の三菱重工知多飛行場略図。


主滑走路長さ1,300m
      幅60m
誘導走路長さ1,000m
      幅30m


航空写真(昭和23年)
滑走路跡地の略地図。北側の交差点からミニストップの少し北までが滑走路跡と思われる。
現在豊田自動織機の工場地に三菱大府製作所が、富木島小学校付近に整備工場が建てられていた。
三菱専用引込線は現在道路となっているようだが、地図を見てもどの道路がそれに該当するのか不明。大府駅までのおよそ3.5kmをつないでいた。傾斜が急の為、2.5kmのスイッチバックがあったとのこと。

滑走路部分の古写真と地図の重ね合わせ。ちょうど上野台バス停あたりが滑走路最南端か。新道才交差点北側にエプロンらしき部分が見える。


勝手に作成重ね合わせ図

青い線の南端から北方面を撮影。
直線道路が続いているが、古い航空写真と重ねてみるとどうもこのあたりは滑走路ではなかったようだ。

同じく青い線の南端から北方面を撮影。
奥のミニストップがある交差点から左に少し曲がっている。
撮影していないがここから右方向に元三菱の大府製作所の工場が建てられていた。跡地には現在豊田織機の工場となっている。

上野台という地名だけあって、小高い丘になっている。大府駅方面への専用線跡は発見できなかった。

ミニストップより少し北側から北方面を向いて撮影。恐らくこのあたりが滑走路の最南端近くと思われる。
ここから北西方面に約1kmの直線道路。

現在周辺には社宅や独身寮が連なる。

車内から撮影。払い下げとなった後、住宅地等となったため、元滑走路の幅はかなり狭くなったようだ。

滑走路跡ほぼ北端の交差点。
現在もここで直線道路は終了する。

エプロン跡と思われる箇所には建築会社(?)が腰を下ろしている。

滑走路跡北端から南東方面を撮影。

戦争遺跡トップ
観光トップ