京都御所
(京都市中京区)

794年(延暦13年)に桓武天皇が建てた皇居は現在の御所から約2km西にあり、現在の御所は、仮皇居のひとつを御所としたもの。明治になるまで天皇は京都に住んでいたが、1869年(明治2年)明治天皇は東京に住むことになる。皇居は東京に建てられ、京都にある御所は荒廃。明治天皇から京都府に御所保存の令を出し皇居を補修。その後補修は宮内省に引き継がれ1915年(大正4年)に現在の形となる。

南北に1300m、東西に700mの広大な敷地を持つ京都御苑は御所を除いた土地が「国民公園」となっていて出入り自由。
幕末には度々御所が登場する。幕府を倒そうとする側は天皇を味方につけ自分達を「官軍」とすることで兵の士気を高め、民衆を味方につけようとしていた。

尊王攘夷派の長州藩と過激派の公卿は幕府を攘夷せざるをえない状況に追い込む策略を立てたが、その情報が薩摩藩に漏れ会津藩と共に御所に立てこもり長州側の人間の出入りを禁止して長州藩と長州系七公卿を京都から追い出した文久3年(1863年)8月18日の政変。京都から追い出されることは政界から追放されることを意味している。

蛤御門。御所九門の一つで1788年(天明8年)の大火で始めて開門し、「焼けて口開く蛤」にたとえて蛤御門の通称になった。本名:御在家御門。
文久3年8月18日の政変により政治介入権を失った長州藩が1864年(元治元年)の池田屋の変で同士を捕殺されたのを口実に軍事的に京都を制圧し天皇を奪うがために上洛した。蛤御門付近で、会津・桑名・薩摩各藩の隊と衝突し壊滅。このとき長州兵に退兵を呼びかけたのは禁裏御守衛総督を勤め後に15代将軍となる一橋慶喜。

御所の正門にあたる南門。長州の上洛にあたり、夜間新撰組が警護したらしい。蛤御門の変(禁門の変)では九条河原に布陣していたため新撰組はほぼ残党狩りをしただけ。

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