もらった動物園 〜鶴舞動物園〜

名古屋市鶴舞公園附属動物園の生い立ちは明治中期に個人が開演した動物園に始まる。


明治23年、動物商を営んでいた今泉七五郎は所持する動植物一千有余種を整理した上で前津に「波越教育動物園」を開園した。開演当初は常時飼育している動物もウサギやタヌキ等の小動物ばかりであったが、明治39年に愛知博物館から熊や鶴の飼育依頼を受けると次第にその規模は大きくなっていった。


動物の増加は同時に餌代などの費用を押し上げる結果となり次第に経営を圧迫するようになった。名古屋市も私立とはいえ波越教育動物園が唯一の動物園であるため、七五郎への補助を開始した。この補助は明治39年の200円にはじまり、その後も増額が続いた結果、大正6年には1600円にまでなった。しかし補助は受けていたもののその規模は既に個人経営のレベルを超えており、後継問題などもあって七五郎は個人での存続を断念、市への寄付を申し出た。


名古屋市は六大都市の一つでありながらそれまで市営の動物園を持っていなかったため、この申し出が市議会の議題にあがると満場一致で可決された。
大正7年3月20日、七五郎から市に対し獣類79頭、鰐2頭、鳥273羽、亀27匹、ラクダ48頭、魚類52尾が正式に寄付された。七五郎のそれまでの苦心に対して市から3000円が送られた。


こうして大正7年4月1日、鶴舞公園内に名古屋で初めての動物園「名古屋市鶴舞公園附属動物園」が開園した。その後もライオン、大蛇、虎、鶴等、動物の購入は積極的にすすめられていった。翌年からは夏季限定の夜間営業も始まり、夏の暑気払いに多くの客が集まった。年号が変わって昭和2年、立位したばかりの昭和天皇が行幸で名古屋を訪れた際にはサル2匹が御下賜されて専用の檻も建造された。


当時の入場料は大人5銭、子供3銭、面白いことに回数券まであり、25回分で大人1円、子供50銭となっている。開園時間は季節によって異なるが午前8〜9時、閉園時間は午後4〜6時となっていた。現在と比較して娯楽の少ない時代でもあったため、多くの見物客が訪れたという。それ以外にも動物に与えることのできる芋や鱒など有料の餌がなかなかの収入になったと当時の記録には残されている。


昭和12年1月、鶴舞公園の片隅にあった動物園は手狭になったため東山公園に移転、その20年の歴史に幕を閉じた。


参考文献:名古屋市鶴舞公園附属動物園一覧(昭和3年5月)

動物園であった頃の唯一の遺構である門柱跡。資料では特に門の名前は無く、入ってすぐ右手に門衛所があった。


[当時の鶴舞動物園西北部の地図]
中央右の門が現存する門跡。
 ←現在の門柱跡のおおよその位置


[鶴舞動物園の全体地図]
左側を斜めに走っている道路が現在の国道41号線。当時は市電が走っていた。
道路や動物園の区画はほとんど変わっていないので、地図を見比べるとだいたいの位置関係が把握できる。

現存する門柱付近にあった水禽舎。つまり水鳥用のオリ。中央には噴水があったらしい。

現存する門柱に残る扉の金具。
昔の古い家なんかには結構見られたが最近全く見なくなった。

門柱跡に残る説明板。
写真を撮っていると通行人が何を撮っているのかとジロジロ見られる。
「説明板撮影してます」、当然その場じゃ言えないのでここで釈明。


正門付近の地図。現在の陸上競技場の南側。愛知県勤労会館あたりが動物園の中央部分であった。
正門跡付近を東向きに撮影。右手が陸上競技場、左手が勤労会館。
専門学校時代はこの競技場で体育祭が行われた。もちろん動物園には何等関係がない話。

当時の正門と西門(右上)の写真。西門は現在の国道41号線に面した部分にあったが、現在なんとなく雰囲気は残っているが遺構は残っていない。正門は現存門柱によく似ているが、異なる。

正門付近の一等地にオリがあった象。今も昔も人気のある動物。
ラクダ。写真で見ると妙にグロテスク。
正門付近と思われる写真。
現在動物園は東山に移ってしまったが、市民の憩いの場として、休日にはたくさんの人々が集まる。

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