混乱の区 〜名古屋市栄区〜

現在名古屋市には16の区が存在する。市政開始から19年後の明治41年に東・西・南・中区の4区が初めて設置されて以来、その後も周辺町村との合併による市域の拡張と人口の増大により増区を重ね、現在に至っている。そんな中でかつて「栄区」という区が存在していたことを知る人は少ない。それもそのはず、この区が存在した期間はわずか2年にも満たないからだ。
この栄区がどのような背景で誕生し、なぜそのような短期間で幕を閉じなければならなかったのであろうか。今では名古屋市の歴史にその名をわずかに残すのみとなっている栄区についてその足跡をたどってみよう。


1.名古屋市市政開始
名古屋市は明治22年(1889)10月1日、全国で36番目の市として誕生した。
人口は15万人強、現在の名古屋城付近を市域とする13.3平方キロ、現在の規模からみるとかなり小さなものであったが、愛知県内では初めて成立した市であった。


2.大名古屋に至る発展
明治40年(1907)の愛知郡熱田町等との併合によって市域は市政開始当時の約2倍に広がり、翌年には全市を東・西・南・中の4区に分け、4区制を敷いた。
その後も第一次大戦等の好景気による労働者の流入や隣接する町村の併合により市域・人口共に増加し、昭和12年には(1937)現在に至る千種区・中村区・昭和区・熱田区・中川区・港区が設置されて、10区体制となった。この頃には市の人口も100万人を超え、「大名古屋」として威風堂々たる都市として成長していたのである。


3.非常時の増区
昭和16年(1941)太平洋戦争が勃発。それまで中川区を除き、区の一部、もしくは複数の区が同一警察署の管区となっていたため、日ごと厳しくなる戦況の中で行政区域と警察署管区を合致させる必要が出てきた。これは行政区と警察管区の合致によって、市民生活の秩序の安定を図り、より強固な防衛体制を作ろうとしたためであった。
その手段として増区による方法がとられた。昭和18年(1943)12月18日の市会議で原案が提出され満場一致で可決、戦争という非常時ということもあり、翌昭和19年(1944)1月26日には早々と内務省の許可指令がおりた。



千種 106,666
113.588
85,946
西 125,997
125,834
中村 122,034
87,912
107,050
昭和 101,614
瑞穂 89,035
熱田 106,223
中川 105,377
66,824
[昭和19年2月の人口]

[13区制当時の栄区周辺地図]



4.栄区誕生
こうして昭和19年(1944)2月1日、栄区・北区・瑞穂区が設置され、名古屋市は13区制となった。
増区前、新栄署はその管区が東区・中区・西区に渡っており、この増区によって新栄署の管轄地域が栄区となったのである。行政区域として、北は名古屋城、南は現在の若宮大通、東は千種駅付近、西は堀川に至った。後に併合される現在の中区北部がだいたいの旧栄区区域となる。区役所は栄区新栄町一丁目七番地の中区役所内に置かれたが、度重なる空襲に追われ、翌20年(1945)4月には栄区(現東区)西新町一丁目二番地に移り、同年10月には再度中区役所内に戻るなど、慌しい動きをみせている。


5.独立行政不可
軍需都市であった名古屋は米軍に執拗に狙われ、度重なる空襲を受けるに至る。昭和20年(1945)1月3日、2月1日、3月11日の空襲によって市街中心部のほとんどは焦土と化した。また増区当時、中区と栄区合わせて約195,000人を数えた人口は、応召・戦災死亡・疎開によって激減し、昭和20年(1945)には35,000人にも満たなくなってしまった。
8月15日終戦。戦争は終わったが、焦土と化した区域と激減した人口が残された栄区・中区は共に独立して行政区を保つ事ができなくなってしまった。


そして9月29日、本会議に緊急提出された案件は次の通りであった。
「本市は栄区及中区の区域を中区の区域とするものとす」
11月2日栄区は最後の日を迎え、翌3日、栄区は中区に併合された。設置から併合までわずか1年8ヶ月、混乱の中で誕生し、混乱の中で幕を閉じたその区を残す痕跡は限りなく少ない。


現在「中区栄」はたくさんの人々が訪れる名古屋の大繁華街となっている。

     [現在の中区役所]

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