看板に偽りあり 〜名古屋汎太平洋平和博覧会〜

名古屋(愛知県)は戦前、戦後を通じて多くの博覧会を開催し成功させている。
2005年に開催された「愛・地球博」が愛知を代表する博覧会になるとすれば、戦前名古屋を代表する博覧会は「名古屋汎太平洋平和博覧会」であった。


<あらまし>
「名古屋汎太平洋平和博覧会」は昭和12(1937)年3月15日から5月31日までの78日間にわたって開催された。会場は南区(現港区)の臨港地区であったが、この開催地選定も港近くで博覧会を開催することによって、市街地と名古屋港を結びつける意図があったとされる。敷地は15万坪、この広大な敷地は博覧会開催の為に熱田前新田の沼地を埋め立ててできたものであった。


(名称) 名古屋汎太平洋平和博覧会
(目的) 関係国間の文化、産業の交流と、平和の増進
(会期) 昭和12年3月15日〜5月31日(78日間)
(会場) 名古屋市南部臨港地帯(熱田前新田)
(面積) 15万坪(50万u)
(主催) 名古屋市
(協賛) 愛知県、名古屋商工会議所
(経費) 直接、付帯事業費含めて約2000万円(当時の価値で130億円強)
(出品区域) 日本帝国領土・太平洋沿岸諸国・名古屋市と密接に関係する国(参加国29)
(出品内容) 産業、社会、科学など一切
(城内施設) パビリオン26
(総裁) 東久邇宮稔彦王(皇族・陸軍大将)
(会長) 大岩勇夫(名古屋市長)
(入場料) 大人60銭 子供30銭 軍人30銭(その他別途料金有)
(入場者数) 約480万人
(収支) 収入335.4万円 支出328万円(直接費)
 
[ポスターなど(左は海外向け)]
 
[記念絵葉書など]

[会場の案内マップ]  拡大図

<「大名古屋」への舵取り〜大岩勇夫〜>
この博覧会の仕掛人は大岩勇夫、第12代の名古屋市長である。名古屋の偉大なる市長として名高い人物で、その三期12年にわたる任期中、数多くの業績を残した。中川運河・名古屋市公会堂・水道拡張・下水処理場の四大事業にはじまり、名古屋市庁舎・国鉄名古屋駅・東山動物園・市民病院などハード面の充実は特に目を引くものとなっている
大岩が目指していたのは「大名古屋」の確立であった。当時の名古屋市は人口こそ全国有数の都市でありながら都市機能が発達しておらず、「大いなる田舎」であった(これは今も変わらないが)。これら都市機能の充実は「大名古屋」転換への必須条件であったともいえる。また、ものづくりの街として名古屋を成長させるべく尽力し、三菱・トヨタの工場誘致に成功、さらに「中京デトロイド計画」をぶちあげ、初の純国産自動車「アツタ号」の開発を後押しするなど、精力的に働いた市長であった。
当時、地元中京商業の甲子園三連覇、前畑秀子(名古屋出身)のオリンピック金メダル獲得に名古屋市民は沸き立ち、工場の建設など産業面でも名古屋は元気であった。大岩は完成しつつある「大名古屋」を国内外に知らしめるべく平和博覧会を開催させた。戦争の足音を聞きつつ、その不安に耳を塞ぐかのような大盛況は昭和12年の3月15日にはじまった。

<「平和」と軍部>
前年2.26事件が勃発するなど、軍部の力が強くなっていく中で「平和博覧会」という名称は軍部(特に陸軍)にとって決して心地いいものではなかった。何度か陸軍からの圧力もかかっていたようだが、総裁に東久邇宮稔彦王(皇族・陸軍大将)を迎えており、開催中止までの圧力をかけるには至らなかった。大岩の政治的配慮が功を奏したのである。ただし陸軍はこの後もなにかと横車を入れるなど嫌がらせに終始し、開催期間中陸軍将校の正式入場はなかった。
海軍は陸軍と反対に博覧会に対しわりと好意的で、戦艦「伊勢」の名古屋港入港、乗組員全員による見学が行われている。
戦艦伊勢 大正7年竣工の戦艦。のちに後部を飛行甲板に改造するも中途半端は否めず本来の働きはできなかった。昭和20年7月燃料不足で防空砲台となったが空襲で大破着底した。
写真提供・説明文の概要はやまとさんのHP「Yamato's World」のご協力をいただきました。
ありがとうございます。

<パビリオン>
当時の博覧会会場地図を見ると数多くのパビリオンが建ち並ぶのが見て取れる。
中南米館・シャム館・ブラジル館・満州館など海外から出展されたもの、東京館・神奈川館・大阪館など国内から出展されたもの、近代科学館・電気館・資源館・ラジオ館・航空館など産業的なテーマから出展されたもの、海女館・透明人間館・盆栽館など一風変わったもの、現代のように情報が発達しておらず、娯楽も少ない当時の人々にはきっとどのパビリオンからも新鮮な驚きや感動を受けたことだろう。またこの博覧会の為に埋め立てられた会場の中央には市電が走り、市街地から客を満載してやってきていた。
近代科学館外観
なにやらギリシャっぽい彫刻がお出迎えしてくれる。なにが近代科学なのかと入場すると…。
近代科学館
展示された世界一の大地球儀。直径8.5m、パリ万国博に出展されたのと同じもの。確かにでかいが、北半球はどうやってみるのかが不明。
透明人間館の外観
平和博覧会を調べはじめて一番気になっていたパビリオン。透明人間…それをどうやって展示するんだろうと思っていたが…。
こんな感じだった…。


ドイツ、ドレスデン衛生博物館に特注した世界で二体しかない透明人間。お値段は一体4万円(当時の価格で2600万円…)。
当時のパンフレットによると「世界にふたつしかない透明人間が科学の神秘を物語っている」とある。
ちなみに出入り口は写真右下。この展示もかなり高所にされていたようなので果たしてちゃんと見られたかどうか不明。
盆栽陳列所
日本の心、盆栽を展示する。今でも名古屋城では毎秋に菊の展示会をやっているが、どうやらこういうのがお好きな土地柄なのかもしれない。
貿易館内部
ナチスのハーケンクロイツも見られ、3年後の日独伊三国軍事同盟を予感させる
社会館外観
どういうものが展示されていたかは不明。どれも昔の映画館っぽい外観が多い。

<工業都市名古屋の屋台骨>
この博覧会にあわせて埋め立てられた15万坪におよぶ臨港埋立地は工業地として優良物件であると認知され、期間終了後完売している。現在工業都市名古屋の屋台骨をささえる南部地区はこの時の埋め立てによるものが大きい。大岩がどこまで見通していたか今となっては不明であるが、大岩が目指した数十年後の「大名古屋」にこの博覧会が確実に寄与しているのは確かである。
会場中心部付近の空撮
この後、工場の林立、戦時の空襲などで雰囲気はほとんど残っていない。唯一残る遺構は港区の「平和橋」のみ。
その唯一残る遺構、平和橋から撮影した会場内部。

<反転>
こうして成功裏に終わった平和博覧会であったが、その閉会のわずか二ヶ月後、盧溝橋事件をきっかけに日本は中国との泥沼の戦争に踏みこむこととなる。短期収束を目論んでいた軍部であったが戦いは次第に激化、中国との戦争から連合軍を相手に全面戦争に移行していった。
「太平洋、平和の博覧会」その名を嘲笑するかのように「太平洋戦争」へと突入したのである。



閉会後、その名と正反対の事態に陥った68年前の博覧会、そして2005年に開催された「愛・地球博」。「自然の叡智」をテーマにした今回の博覧会においてもその歴史の皮肉は繰り返されるのであろうか。

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