第8回爆釣旅行(原爆ドーム編) その2 

多くの軍事工場のあった広島は、労働力不足により民需産業の労働者が数多く強制徴用された。さらに、女性や学徒まで動員。1944年には県内工場労働者の約4分の1が学徒動員。朝鮮人や中国人までも巻き込む始末。
缶詰用の金属も不足するほど軍需産業中心の国家。代用品は陶器。


「欲しがりません、勝つまでは!」
「耐えられません、わたしでは!」

原爆投下前の広島の町並み。真ん中の丸い屋根の建物が広島県奨励館(原爆ドーム)。

1945年8月6日 原爆投下
広島県奨励館(原爆ドーム)のほぼ真上で原爆が爆発。
原爆投下後の広島。見る影もない。焼け野原というよりも、何も残ってない。原爆ドーム(広島県奨励館)と、わずかにコンクリート製の建物が残っただけ。

1945年8月14日 ポツダム宣言受諾
1945年8月15日 敗戦
敗戦後、約6年8ヶ月連合国に占領され、占領政策のなかのプレスコード(報道準則)により原爆の被害や全容が全国に広がることはなかった。「原爆」という言葉も。
アメリカ人らしき観光客が結構訪れていたが、どんな気持ちで見ていたのだろう。

熱戦を吸収しやすい黒い文字だけ焼かれたポスター。
原爆炸裂時の中心温度摂氏100万度超。
爆心地の地表温度摂氏3000〜4000度。
(鉄の融点:摂氏1500度 太陽の表面温度:摂氏5700度)
1945年12月末までに確認された推定死亡者数約14万人。その中には、朝鮮・中国人の強制徴用者、東南アジアからの留学生、アメリカ軍捕虜も含まれている。

レンガも溶けて原型を留めていない。

この他にも、原爆投下時間の8時15分に爆発を受け止まった時計、被爆者の「ケロイドとなった皮膚」のホルマリン漬け等も展示されている。

るるぶ片手に見事な観光客となって選んだ昼食はもちろん「広島風お好み焼き」。しかも大山のぶ代推薦。

店は階段を登って2階にある。入口の看板の絵の意味はわからない。

店のおばちゃんに「広島は見るところが無いでしょ?」と聞かれた。とはいっても2泊3日では足りない。

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