高烏堡塁 その1
(呉市 2011/3)

明治35年、広島湾および呉港防禦のため陸軍が構築した砲台。大正期に廃止されたが、太平洋戦争が勃発すると海軍に移管されて高角砲が装備されている。戦後は海を臨むロケーションが良かったためか、はたまた平清盛の伝説のおかげか公園として整備された。


音戸の瀬戸公園(高烏台)案内板。
少々痛んでカビっぽいが全体が鳥瞰できるこのタイプの案内板はありがたい。

砲台の沿革を記した説明板。

砲台名となっている「高烏」の説明板。
変わった名前だなと思っていたので、何となく納得。


高烏堡塁跡のメイン遺構とも言える兵舎跡はすぐ横に階段があるので上からの観察がしやすい。
明治期に造られたレンガ製の建造物もしっかりしたものが多いが、花崗岩で造られたこの兵舎跡も100年ものとは思えないほど。

兵舎南西側に残る水槽跡。
近くで写真撮るの忘れてたのでこれだけ。


少し降りて撮影。
ご覧の通り、屋根は全く残っていない。

兵舎入口部分。
ここだけだと中世の城のように見えないこともない。ハムレットっぽいね、読んだことないけどね。


兵舎跡内部。
出入口は東西二方向と海を臨む北側2ヶ所の計4ヶ所。
兵舎外側の壁は凸凹があるが、内側はきれいに整形されている。


内部にはこれといった遺物は残されていないが、何やら基礎らしきものが残る。屋根を支える柱用だろうか。

海を臨む北側出入口。
屋根との接合部に柱を入れたと思われる切り込みが見られる。

胸墻部に建てられた平清盛像。
清盛が音戸の瀬戸を切り開くため、沈んで行く夕日を金の扇で呼び止め、一日で工事を終わらせたという伝説にちなむ。
自分も仕事が遅れてる時にできたらいいなと思うが、会社でやったら今後の社会人生活で陽が昇ることがなくなりそうなのでやめとく。

見学した年は(2011年)は普通の像だったが、大河の主人公となった2012年には観光客誘致に一役買っていることだろう。ドラマ自体は不評みたいだけど。


上から兵舎跡を撮影。
窓ごとに刻まれた切り込みが結構目立つ。


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