依佐美送信所跡 その1
(刈谷市  2010/9)

20代前半、刈谷を通りかかるといつも高い鉄塔が見えた。 戦跡というほどでもないと思ったのでわざわざ行くこともなかった。しばらくすると解体されるという話を聞いた。まぁ暇があったら行こうと思ってたら解体が終わってた。ということでチャ ンスがありながら間近で現物を見ることができなかった。整備されて保存される戦跡もあるが、決して増えることはない。やはりチャンスがあれば見ておくべきだという教訓になった戦跡である。



大正初期、日本は海外との通信方法が外国企業所有の海底ケーブルのみであった。有事の際の通信遮断は外交上大きな不利と考えた政府は国独自の通信施設建設を模索しはじめた。大正10年、福島県に対米無線局が建設されると、さらに対欧無線局建設も計画された。広大かつ平坦な土地、大都市に近く安定かつ安価な電力供給、施設建設に要する資材運搬や労力確保の容易性から愛知県碧海郡依佐美村が候補地となった。
大正12年9月1日、関東大震災により国家事業として送信所を建設することは困難となり、半官半民企業によって建設が行われることになった。大正14年10月「日本無線電信株式会社」が設立され、12月には送信所を依佐美村、受信所を三重県海蔵村に建設することが決定した。

昭和2年建設開始、専用の鉄道も敷かれ工事は急ピッチで進められ、翌年高さ250mの鉄塔8基が完成した。鉄塔には長さ1760mのアンテナが架けられ、昭和4年3月世界最大の長波無線送信所が完成した。しかしこの頃には長距離無線通信の主役は長波から短波に移っており、昭和11年には短波専用施設(局舎と専用鉄塔)が送信局南方に建設されている。

昭和16年12月、真珠湾攻撃を命じる暗号「ニイタカヤマノボレ一二〇八」を主力の連合艦隊に先行する潜水艦部隊に送信した。短波は水の中に届かないが、長波はある程度の深さまで電波が届くためである。ちなみに連合艦隊に送信したのは千葉県の船橋送信所と言われている。その後は海軍専用施設となり、南方への通信に用いられた。

昭和20年日本は敗戦、昭和22年にはGHQから無線塔解体命令が出され、まずアンテナが取り外された。しかし鉄塔を解体するには多額の費用がかかるため手がつけられずにいたが、昭和25年解体の中止命令が出され施設が米軍に接収された。海軍の潜水艦への命令送信に用いるためであった。再びアンテナが張られた依佐美送信所は長波送信施設として復活を遂げたのである。米軍は敗戦時に解体された国際電気通信(日本無線電信株式会社の後継会社)の第二会社となる電気興業を設立させ、運用・保守にあたらせた。

この間、数件の感電事故、米軍基地への反対デモなどが起きている。

平成6年、冷戦終結などを受けて施設は米軍から日本に返還された。平成7年アンテナが取り外されると、翌8年には鉄塔の解体が始まった。事故により死傷者も出たが翌9年鉄塔解体が終了。平成18年残っていた本館と送信局舎が解体された。

平成19年「フローラルガーデンよさみ」として整備された。園内には本館や送信所を模した建造物が建てられ、その中の「依佐美送信所記念館」では実際に送信所に置かれていた施設が展示されている。


フローラルガーデン駐車場の北東、かつて依佐美送信所本館が建てられていた場所。
現在は電気興業株式会社の敷地となっており立入禁止となっている。

電気興業株式会社は依佐美送信所の無線設備建設や保守を行うために設立された半民半官の国策会社「日本無線電信株式会社(後に国際電気通信)」を前身に持つ会社。

現在敷地内に往時の痕跡を残すものはほとんど残っていないが、中央部分に一棟だけ建造物が残っている。

航空写真を見ると本館などはこの建物より右手にあるようだ。

公園入口から撮影。
奥に見える建造物は送信所本館を模して建造されたフローラルガーデン。

近くにあるのでいつでも見られると思ってるうちに解体されてしまい、実物を見たことないのだが、写真を見る限りは割と似ている。

カフェや展示スペースのあるフローラルプラザ。
場所や改修費用の問題があったのかもしれないが、公園を整備して似た建物を建てるくらいなら改修して元の建物を残してほしかった。

フローラルガーデン横には水遊びができるスペースがある。暑い日だったのでたくさんの親子がみられたが、他の水遊びができる公園より全裸率が高かったように思う。

フローラルプラザ内部。
奥が正面、背後が公園側。公園に多くの人が居た割にはカフェには人がいなかった。

公園につながる裏口部分は温室になっており、意味はよく分からないがサボテン園になっている。

フローラルガーデンよさみ園内図。
温室あり、梅園あり、藤棚あり、芝生あり、ミニSLありの豪華で都会的な公園。

左上の部分に依佐美送信所で使用されていた機器などを展示する記念館と撤去された鉄塔を使用して復元された記念鉄塔が建つ。

普通に見れば依佐美送信所関係はオマケ。

公園敷地内。
平成19年につくられた新しい公園だけあって、ゆとりがあって広々としている。写真右手にはイングリッシュガーデンなるものもあったがここではパス。
あと、ミニSLは毎月第一日曜日は通常100円の乗車料が無料になる。この日は泣けてくるほど暑い日だったので、それでも客はいなかった。

ついつい公園の紹介をしてしまったが、肝心の記念鉄塔が奥に見えてきた。

遊具広場。
往時は送信所で働く所員の社宅があったとされるところ。


こちらも往時の送信室を模して建てられた「依佐美送信所記念館」と鉄塔の一部を用いて復元された「記念鉄塔」。
フローラルガーデンよさみの公式HPには「高さ25m『記念鉄塔』が目印です」とあるが、残念ながら25mでは遠目に目印とならなかった。

依佐美送信所の説明板。
今回は機械的に何が何だか分からないので説明板を多く掲載。これunderZeroの基本。

資料によると戦後、米軍より施設の解体が指示され、長波用アンテナなどが取り外されたが、250mの鉄塔は解体に膨大な費用がかかるため事実上ストップしていた。
その後、米軍より潜水艦との交信に長波を用いるため解体中止命令が出され、1952年から1996年までアメリカ海軍依佐美送信所として用いられた。


鉄塔の平面図と姿図。
鉄塔は2(500m間隔)×4(480m間隔)で配置され、16本の空中線がアンテナとして張られていた。長さは1本1760m。

解体されてしまって現存しないが、鉄塔は名駅前のミッドランドスクエア(247m)よりも高く、愛知で一番高い建造物(自立ではないが)となっている。

2号鉄塔跡に建つ記念鉄塔。
係員のおじさんは「せっかくだから公園に来た子供に登らせてあげればいいのに」とのたまう。気持ちは分からないでもないが、絶対に無理だろうと思った。

少なくとも自分は絶対に登らない。

鉄塔の先端部分が取り外されて展示されていた。特に説明板らしきものは見当たらず少々不親切。

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