岡崎海軍航空隊跡 その1
(岡崎市/安城市/豊田市  2008/4)
【共同墓地に建つ防空監視塔跡】
現在は開拓記念碑となっているが、厚いコンクリートの隙間から覗くスリットが往時の用途を微かに物語る。

岡崎市・安城市・豊田市にまたがる海軍航空隊基地跡。
昭和17年(1942)6月のミッドウェー海戦敗北により、海軍は航空兵力の増強が急務となった。西三河の碧海台地に飛行場建設が計画され、半強制的な土地の買収、住民の強制退去が行われた。多数の地元民や学生、朝鮮人を動員し、飛行場建設は進められ、昭和18年に完成した。
しかし、その後の戦況悪化により、搭乗員・整備兵の拡充を図る必要に迫られ、基地には教育部隊が置かれることとなった。昭和19年2月から9月にかけて、第一から第三までの3つの航空隊が設立された。


第一航空隊:主に整備訓練を行った。昭和19年2月河和海軍航空隊岡崎分遣隊として基地南側に設立、4月岡崎海軍航空隊となる。昭和20年2月第一岡崎海軍航空隊と改称。7月解隊。


第二航空隊:同じく整備訓練を行った。昭和19年4月、岡崎航空隊から上郷分遣隊として基地北側に配備された。8月第二岡崎海軍航空隊として独立。昭和20年6月解隊。


第三航空隊:主に航空機操縦訓練を行った。昭和19年9月、名古屋海軍航空隊岡崎分遣隊として基地の中央、第一、第二航空隊に割り込む形で設立、昭和20年2月、第三岡崎海軍航空隊として独立。


昭和19年から20年かけて戦況が更に悪化、教育や訓練を行える余裕も次第に無くなっていった。まず昭和20年5月に第三航空隊が実施部隊となり特攻訓練を開始、訓練後は各地の部隊に配備されて出撃していった。続いて6月には第一、二航空隊の教育・訓練が停止され、本土決戦に向けた地上戦部隊として配備された。7月、第一、二航空隊が正式に解隊された。


戦時下の教育・訓練部隊である以上、どうしようもならない戦況において実戦が優先されるのは仕方が無いだろう。ましてや第一、第二航空隊では整備教育を行う機体すら満足になかったことを考えると尚更である。ただ、長い展望で見れば、教育が国の根幹であると考えることはできなかったのだろうか。確たる方針もないままの特攻訓練への移行、陸上部隊への変更という動きは、日本が既に破綻しており、勝てるはずもない戦争をただ続けているだけの状態だったと思わざるをえなかった。


基地建設時に強制収容された土地は戦後、開墾されて元の耕地に戻って行った。河和海軍航空隊などと比較すると現存する遺構は多くない。

写真は豊田市の柳ケ瀬公園の第二、第三岡崎海軍航空隊記念碑。


春の昼下がり、豊田市らしく公園内には多くのブラジル人が寛いでいた。どうでもいいが、音楽を大音響でかけるのはやめてほしいものだ。

建立之碑。
「昭和五年早期英才教育を目的に海軍飛行予科練制度が採用された。
 昭和十九年従来の予科練教育を改革して航空機整備術を取得させたのち飛行機操縦を習得させる新しい制度が実施されることになった同年五月土浦海軍航空隊分遣隊として安城・岡崎・豊田市が交差する地点に第一・第二海軍航空隊が新設され全国各地より厳選された一万二千余人の若者が第一期生より第八期生まで入隊して六か月の短期予科練課程を修了して内外地の実施部隊に配属されていった。
名古屋空岡崎分遣隊は第三岡崎海軍航空隊と改編して優秀な飛行機搭乗員を養成しのちに沖縄特別攻撃隊を編成して出陣していった。
 太平洋戦争末期岡崎海軍航空隊出身の予科練飛練で尊い生命を散華した数は以外に多いその閃光にも似た十四歳より十九歳に満たんとした青春を悼んで此処に碑を建て桜を植樹永くその意を伝えるものである。
昭和四十九年十一月三日 岡空若桜隊」

写真奥の橋が架かっている所が三河では有名な明治用水。
現在は深くもないし、流れも速くないが、基地が置かれていた当時は水深は深く、流れも速かったため、水泳訓練に用いられた。

30代後半に入っても自分の子孫は増やせない。でも、タンポポの子孫繁栄に一役買う筆皇。
決して寂しくなんかないもん。

山王神社。
戦時中は第二岡崎海軍航空隊が置かれ移転させられていたが、戦後元の場所近くに戻った。

明治期の定め書き。
時代を感じさせる内容。

「見るな!聞くな!言うな!失われた日本人の心を取り戻せ!!」、スリーモンキーズからのメッセージは熱い。

山王神社の置かれた手洗い石。
写真を撮ってるおじさんが、裏に文字が書いてあるよと教えてくれた。
おじさんはたくさん写真を撮っていたので、恐らくHPを持っているのだろう。

「卒業記念」
「昭和十九年十一月九日 第二期甲飛飛行機整備練習生」とある。

境内に残る飛行場の排水溝の蓋板。
戦後、飛行場が解体されると、余剰となった蓋板は周辺地域に散らばり、色々な用途に再利用された。

元々飛行場に敷かれていたもので、飛行機の重さに耐えられる厚さとなっている。一部埋まっているが、その厚さは22cmとのこと。

女には決して分からない魅惑のサイドスロー、「水切り」。どこでも水切りに適した石を見つけると拾ってしまう筆皇。
友人として、その幼心はずっと失わないで欲しい。

護国碑。


旧東海道沿いにある熊野神社に置かれた岡崎海軍航空隊のアルミ製の配置説明板。この場所は第一岡崎海軍航空隊があった場所でもある。
どうでもいいが、アルミの説明板は光が反射して、上手く撮影できないから困る。

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