三菱重工名古屋航空宇宙システム製作所
小牧南工場資料室
その7

九七式司令部偵察機用プロペラ。
資料が入っているガラスケースの前にぽつねんと置かれてある。


エンジンの選定遅れや工場の爆撃などで、終戦に間に合わなかった零戦の後継機「烈風」。
昔持っていた零戦の本では、ものすごく高性能で、終戦に間に合っていれば零戦以上の活躍を見せただろうみたいなことが書いてあったが、実際は実戦投入されていても設計が古く、F-6などと同等に渡り合えたかは疑問である。そもそも、その時期の日本で、米軍機と格闘戦となる状態になりえたとはあまり考えにくい。

零戦の生みの親として名高い堀越二郎氏。

当時19歳の青年からの質問の手紙に対し、堀越氏が返した返答。

図面集。
表紙だけでなく、コピーでいいので中を見てみたい。

売店。
飛行機マニアに人気のあるピンバッジやキャップ、模型、ワッペンの品揃えが豊富。前に来た時から4年経っているので、いいデザインのTシャツもできているかと思ったが、壊滅状態。

山本五十六が揮毫したプロペラ。

特攻隊鉢巻、当時工場で働いていた女性社員の写真。

集中的な爆撃を受けた大江工場から発見された爆弾の破片。

爆撃直後の大江工場。
あまり目立つブースではないが、しんみりしてしまうコーナーであった。

三菱を訪れた米内光政総理との集合写真。昭和天皇他、皇室関係の写真もあった。航空機メーカーとして、日本の代表的な企業であったたため、こうした来賓も多かったようだ。

三菱と言えば、ジープ。ということで、資料室片隅にポツンと置かれたジープ。
自分の車はランクル70の時も、現在のジムニーも、会社の人にはジープと呼ばれている。
三菱ジープ J55型説明板。
四輪駆動車の代名詞ともなったジープは元をたどれば、当所の前身である新三菱重工業名古屋製作所 大江工場で生産が始められた。当所にとっては縁の深い車である。
同車の生産は昭和28年(1953)にアメリカのウイリス・オーバーランド社からノックダウン方式により始まり、その後国産化され、20余万台を製造し今日に至っていたが平成10年(1998)をもって生産終了となった。
当所では、この最終記念車を購入するとともに、戦後航空機事業再開から今日に至るまでの、当所の事業展開の一頁を物語る貴重な資料として後世に伝えるべく現役としての使用を終えた「昭和39年型車輌」をここに展示しました。


結局展示してあるのは、この最終記念車でなく、昭和39年型車輌。ということは「三菱ジープ J55型」という説明板タイトルはいかがなものなのだろうか。

ジープのカタログなど。
ジープマニアにはたまらないものかも。

室内。
一度、ジープのロングガソリン車に乗ったことがあるが、涙がちょちょぎれるほどハンドルが切れなかった。スーパーの駐車場に入れるのに数回切り替えしをした。あれは恥かしかった。

ナンバーは手書きのもので、本物ではない(ようだ)。

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