三菱重工名古屋航空宇宙システム製作所
小牧南工場資料室
その1
(西春日井郡豊山町  2007/10)

かつて日本が世界に誇った戦闘機、「零式艦上戦闘機」を生み出したことで名高い三菱。ここ愛知県豊山町にある三菱重工業資料室には、この零戦の復元機を始め、戦前から現在に至るまで航空・宇宙に関する資料が展示されている。そして今、この資料室の目玉は戦争末期に開発されたロケット推進戦闘機「秋水」である。2001年から機体の復元機は展示されていたが、その後エンジンの設計図が発見されたのを機に半年をかけて復元、その後諸問題により資料室は閉鎖されていたが、2003年6月から機体・エンジン共に展示されている。


住 所 西春日井郡豊山町
(0568)28-1112
入場料
駐車場
開館時間 予約時に設定
休業日 月・木曜日のみ開館
入館には予約が必要
H P 無し

「零式艦上戦闘機52型甲」。
有名な話ではあるが、零戦の名前の由来は、この戦闘機が海軍の制式戦闘機となった年が紀元2600年(神武天皇即位の年を紀元1年とする日本特有の元号)であったためにその末尾「00」からきたもの。
紀元2597年に制式戦闘機となったものは「97式」と呼ばれる。


この復元機は昭和19年に三菱大江工場で製造された機体。昭和58年にミクロネシア・ヤップ島のジャングルで残骸が発見されて復元された。発見された時点で製造から40年近くたっており、塗装も剥げ落ち、エンジン部分は朽ちて落ちてしまっている。素朴な質問だが、搭乗員はどうなっていたのだろう?


残骸使用状況。あちこちで見つかった残骸をある程度くっつけて復原したものだと思っていたが、どうなんだろうか。

11型・21型・22型・32型・52型・53型・64型の形式がある。強力な火力、長い航続距離、高い運動性等から日本の主力戦闘機として数々の戦功をあげた。
なまじ優秀がゆえに後継機の開発が進まないまま、次第に弱点も研究され、連合軍戦闘機の能力向上、熟練パイロットの不足、資源の枯渇等から押され気味となり、戦争末期には数多くが特攻機となった。

真正面から撮影。
大和ミュージアムの零戦よりは、色々な角度から撮影できる。おまけに客が少ないので、じっくり見られるという特典つき。


ただし寂しい。
もともとは一般公開という概念ではなく、この製作所の訪問客向けという感じで、質問しなければ係員からあまり話しかけてくることはない。

真後ろから撮影。
ホワイトバランスが上の写真と違ってしまっているが、庫内の雰囲気としては、こちらの写真に近い。つまり、なんとなく寒々しいということでもある。

零戦本体の他、発見された部品などの展示も行われている。
展示のされ方が少々フリマ調。

操縦席へのタラップは通常立入禁止。
VIP客などは見せてもらえるらしい。
丁寧にお願いすれば近くで見せてくれそうな雰囲気がある。


自分もその作戦だったが、おじさんは奥に引っ込んだきり出てこない。他の工場からやってきた女性社員に説明したくて仕方がない大泉洋チックな人が、まだ帰らないのかとチラチラ見に来る程度。


ついにしびれを切らしたライク洋が、女性社員に零戦の説明をしだした。操縦席にも乗せ、操縦桿もにぎらせている!今だ!
「…僕にも見せてください」
お願いしてみた。
「…見るだけならいいですよ…」
仕方ないという感じでライク洋がつぶやく。
写真を撮ってる数十秒の間にも、洋がわざとらしく、奥を気にするようなしぐさを見せる。嫌な奴だ。
無料とはいえ、そんな態度をとるな。

タラップがない右側面。
背後から、ある程度距離を開けて撮影できるのは、結構珍しいのではないかと思っている。

現代の戦闘機と比較すると、生き物チック、かつ紙飛行機チック。

カウル下部アップ。
見えているのは栄21型エンジン、1010馬力。カウル後方に見えるのは吸気口。


車と同じで、初期のものより後期型の方が基本的に馬力は上がっていったが、それにあわせて自重が重くなり、その特長であった運動性を殺してしまった。

エンジンカウル、プロペラ部分アップ。
プロペラがスピナーに固定されていないのがしみじみと分かる写真だ。

何とも美しいアングル。
風防後部のポールから尾翼にかけては通信用のアンテナが張られている。

零戦のデザインで非常に気に入ってる水滴型風防。非常に美しいと思いません?

カウルから出ている貝の足みたいなのは、52型以降の特徴でもある「推力式単排気管」。
簡単にいえば、各シリンダーから出る排気ガスを、束ねないまま後ろ側に排出して、速度アップを狙ったもの。
ちゃんとした効果があるのか分からないが、頭がいい人がやったことなので、ある程度意味はあるのかもしれない。

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